第39話 感情労働?

「感情労働?」

 俺が聞き慣れない言葉に思わず聞き返したところで、ヤミの脱線話が始まったのだ。

「そんなことも知らないの? 斑や堀川とは関係ないけど、じっくり説明やるよ。生徒会の親心っていう意味もわかるようにな。

 まず、頭脳労働と肉体労働って言葉は斑でも知ってるよな。そして、最近問題になってるのが感情労働だ。

 感情労働を一言でいうと、「感情を抑えることで賃金を得る」仕事だ。具体的な職種は「看護師」それに「介護士」、客席乗務員が代表的だって言われてるけど、顧客の要求に耐えなければならない職種は、「接客業」に「電話オペレーター」、さらに、公務員や先生、保育士と、まあ、どの仕事もカスハラ(カスタマーハラスメント)が広く知られるように感情労働的になってきている」

「なるほど、そういう仕事な。エッシェンシャルワーカーっていうんだっけ。在宅ワークがしにくい仕事だな。確かにそれはハードだわ。てめぇを棚に上げて正論ぽい要求って不可避な暴力と同じで、理不尽だと感じるもん」

「うん。正論ぽいってどんなもんかと云うのは置いといて、さっき上げた職種って、実はコミュニケーションが好きで、感情豊かな人が就きやすい職種なんだけど、そんな人でも感情の疲れからすトレスを感じる人も増えている」

「ヤミの言うように、対人関係で感じたストレスは、解消させる手立てが中々難しいのよ。スポーツやお酒で発散させるのが難しいし、企業にとっては、作業量の予測や計画が立てにくいうえ、習熟効果による労働効率が期待できないコストのかかる部分で、そこが頭脳労働や肉体労働との決定的に違って、頭の痛い所なの」

「なるほど、それを見越して、一条学園では学校にいるうちに感情労働の訓練をさせるわけだ」

「当たらずも遠からず。堀川さんの態度はこの感情労働の対処の仕方として優秀だわ。ザギリさんも参考にするように、ってか近いうちにチャンスがあるかも……」

「ミキさん、チャンスって、対処方法も分からないのに?」

「こちらがストレスを感じないで、物質的なサービスではもはや満足しない顧客を精神的に満足させる方法よ」

「そんな方法なんてないだろ?!」

「あるのよ。感情労働って感情をコントロールするスキルが必要なのよ」

 そう云うと、ミキはいきなり涙をツーッと流したのだ。

 えっ、どうして? 何か泣かせるようなこと言ったか? まったく、意味が分からない。

「な、なんで泣いてるの?」

 あわててオロオロしてると、そんな俺を見てクスクスと笑い出すミキ。

「どう? 私の演技力。これが感情をコントロールするっていうことなのよ。

 感情労働という言葉を最初に言い出した学者さんは、感情労働における対応術には「表層演技」と「深層演技」があると云っているわ。愛想笑いやお世辞なんかは「表層演技」の代表的なもの。

「深層演技」は役者さんのように、心からそう思い込むようになり切る演技のこと。具体的にいうと「こうあるべきという模範的な感情」に自らの気持ちを合わせて演じることね」

「よく言われる相手の立場になって考えるのとちょっと違うのか? 模範的な感情を演じるには、素と演技の境が曖昧な高い演技力が必要だね。悲しい場面で確実に涙を流せるミキなんて、確かに名優だ」

「分かった~? どんなビジネスも心がないと人々を感動させることはできないんです。ビジネスとはつまるところ、顧客を感動させる営みですから」

 そう言って、ミキはドヤ顔で、こめかみを人差し指で差しているのだ。

 いや、あんた、さっきまで泣いていたはずだけど……。それよりなにより、脳幹を指しながら感動とか口走っているところがダメダメだし……。


「あっ、でも、それって、個人と職場との一体化が進んで個性を失い、都合のいい操り人形になるか、心を病んで廃人になるんじゃないか?」

「ひどい言い草ね。確かに、名女優は自分と役の境が無くなって、精神を病むこともあるわ」

 そう言って表情に憂いを浮かべるけど……、自分が名女優だと云いたいのか?

「堀川さんなら大丈夫だよ。帰って来る場所がちゃんとあるから。一条学園ではみんなで支え合う依存労働によって個人のアイデンティティを確立するようにする。それが一条学園のカリキュラムだから」


「そういう帰って行く場所がない人が、自分を見失って燃え尽きちゃうのよ。それに最初に言ったように、斑は堀川さんがクラス委員を押し付けられたと勝手に勘違いして怒っているようだけど、その話の中で感情労働について話が脱線しただけで、斑と堀川さんとは関係ないから」

 確かに、ヤミが最近の労働問題として感情労働の方向に脱線しただけで、やっと元の場所に戻ってきただけだ。


 社会人として、依存労働にしろ感情労働にしろ感情を切り売りしているのは分かった。それで堀川さんがそれ軽減するスキルをもっていて、それにアイデンティティを感じるなら、こちらから彼女を庇う必要もない。少なくともこの経営企画クラス、全員がエリートだって聞いている。

 それで、俺の斑に対する警戒を怠ったわけではなかったはずだけど……。

 斑の能力は俺達の想像をはるかに凌駕していたのだ。

 また、それを暴走させるほど、堀川さんに対する斑の気持ちは危険極まりない妄想癖で一方的に感情を押し付けるストーカーのような人種だと危険視していたのに……。

その瞬間は昼からの部活動のオリエンテーションに起こったのだった。

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