さかさ手紙

@osakana0507

滲んだ手紙

"拝啓  親愛なる私の親友へ


中々勇気が出せずに遅くなってごめんね

今から貴方に会いに行くよ


              敬具   イブより"


書いた手紙がヒラリと宙を舞ってそれをつかみ取った後にぐしゃりと軽く乾いた音がした。


風で前進が煽られて一瞬息が出来なかったがそれに大した感情が沸き上がることもなく、彼女と手を繋いで笑いあう自分の姿が脳裏を過って、消えた。


インクの滲んだ手紙をポケットに押し込んだ私は地面を思いっきり踏み込んで、そのまま外へと飛び出す。


数日間外に出ていなかった身体は冷たい空気が肺に満ちたことでカヒュッと妙な音が口から漏れて、血のような魚の内臓のような独特の鉄臭さが口に広がった。


じっとりと気持ちが悪い脂汗も滲んで


キラキラと光り輝く町はまるで銀河のようで、有名な小説の銀河を走る列車の窓の外の景色のようだ、とふと思った。



「・・・一緒に逃げちゃおっか」と彼女と話したことを何故か思い出して


彼女とお揃いで買った数回しか履いていない、私には高すぎるピンヒールを脱ぎ捨てた。



白い息を吐きながら思考が彼女一色で染まっていた私の頭の中は彼女を追わなければ、という使命感だけで身体を突き動かした。


現金なことだ、


少し前まで恐怖で動けなかったのに、彼女へ会えると分かった途端に筋肉の弛緩を一瞬で解いて動き出すのだから


手が震えているのは寒さだけではなく恐怖から来たものでもあるのだ、と気づいたのは「それ」が恐怖なのだと理解した随分後だった。


視界がチカチカと光って、その端が暗くなっていくほどに脳が危険だと判断し異常事態を訴えている。


まだ動ける、と判断する脳と反してその思考は私の体にとって毒でしかないようで足が縺れて何もないところで転びかけた。


足を止めることなくただひたすら彼女の事を考え続ける。


彼女が傍にいればそこは何もないサバンナでもゴミばかり集まるような掃き溜めでも、私にとって理想郷だったから。


彼女が横にいるのは私にとって当たり前で失われることなく一生続くのだと思っていた。



ついこの前までは家賃相応の薄さしかない壁を隔てて彼女の部屋からテレビの音や目覚まし時計の音までも聞こえてきていたのに


今の彼女の部屋からは何も聞こえない。


面倒臭がりな彼女がため込んでいた洗濯物もなく、狭かったベランダが空しいほど広く感じた。


彼女が使っていた家具すらない嫌な意味で綺麗になった部屋には、もう彼女がいた痕跡すら残っていない。


まるで彼女など元々存在していないかのように。




どうしても彼女がいないことを認めるのが嫌だった。


彼女が私と一緒にいてくれたおかげで私はこの場所を好きになれたから。



「かわいい」と声が重なった服やお互いに少し高めのアクセサリーを送りあうために買った。


私と彼女の好物である苺がふんだんに使われたふわっふわのパンケーキを食べに行った。


仕事がうまくいかなくて、上司に理不尽に怒られて、それでもお互いに泣きながら励ましあった。


どこにでもあるような当たり前の日常を過ごしたことを


思い出しては泣いてしまう


彼女が一通の手紙を残して隣の部屋から去ったあの日の事を。



私は最後まで足を地面に縫い付けてしまって、苦笑いをした彼女を追いかけることができなかった


常に私の先を行く彼女は、また私よりも先に新しい道を見つけて私を置いて行った。


確かに仕事は辛かったし、人間関係とかそんな実態のない何かに悩んだりした時期はあったけど


それに慣れ切っていた私と対照的に彼女はこの場所から逃げる決心をした。



私の理解者だった彼女のその言葉は私に逃げ道を作ると同時に、きっと彼女から私への最初で最後のお願いだったのだろう。


「一緒に行こうよ」


私は昔から臆病者だったから、彼女の言葉にあの時は答えることができなかったのだ。


頷けなかった私を許してほしい


私はどうしても怖くて、息が苦しくなって足が竦んで動けなくなってしまったから


新しい場所で新しい人と、新しいことを・・・そんな風に一人で何かを構築することが他人よりも圧倒的に苦手な人間だったから。


そんな私にとって彼女が一緒に長い年月を過ごしてくれたのは、幸せ以外の何物でもなかったのだ。


先日落として割ってしまった写真立ての中で彼女と映っていた私は笑っていたけれど、それに反射した私の顔は一切笑っていなかった。




その時沸き上がった感情が何か分からなかったけれど、魚の小骨が喉に引っかかってしまったような気持ち悪さと痛みが胸の奥で引っかかっていた。


雨に濡れた烏のように黒く艶のある髪の彼女はその目元に烏と同じように雨粒を乗せていて


返事をしなかった私を見てあの時彼女は苦笑したけど、いつものように笑って言ってくれた。



「返事待ってるから・・・良ければ、直接渡しに来てね」



あの時彼女から貰った手紙は誰にも見せずに今も私の部屋の鍵付きの棚に大切にしまっている。


きっと私が生きている間には誰にも見られることのないであろうその手紙


白い封筒に描かれていたのは本当に僅かな言葉だけだったけれど、それでも私にとってはそれは何よりも大きなメッセージだった。




真っ白な紙をいざ目に映した時は涙が止まらなかった。


彼女との思い出が溢れ出して、溢れて、溢れて、消えることなく私の脳内を揺さぶったから。


震える手でペンを握って文字を綴っていた時間はハッハッ、と酸素を必死に吸いながら書いていたからか、生きた心地がしなかった。


体を僅かに痙攣させながらトン、と最後の点を打ってペンを机に置いた。


涙で文字が滲んだ短い文章になってしまったがきっと彼女には伝わるだろう。




彼女の望んだ手紙は今、私の手の中にある。


街を見渡せば何年も経つというのに未だに見慣れないチカチカと光る電灯が溢れる眩しい光景に眩暈がした。


彼女は部屋を去ってこんな景色を見ていたのか。



恐怖でカタカタと震える右手を左手でギュッと押さえつける。


唯一身に着けている彼女から貰ったハート形のピアスにそっと手で触れて


ジュクリ、と熟れすぎた果実を頬張った時のような形容しがたい若干の不快感が胸を襲って思わず生唾をゴクリと飲み干した。




周りの騒音が波が引くように段々と耳から遠のいていく


「大丈夫」と


決して声の聞こえるはずのない場所にいるはずの彼女が優しく言った気がした。



救急車とパトカーのサイレンが遠くで鳴っている。


路地裏にいた黒猫も何かに甘えるようににゃあ、と鳴いた。



貴方が出ていった日も、こんな風に煩かった日だったね


出ていく直前の晴れやかな顔をした彼女の姿を思い浮かべて頬をパシンッと叩いた。



貴方のおかげで漸く気持ちが決まったんだ


変化を恐れる私にとって彼女の元へ行くことは人生最大といってもいい程怖くて恐ろしい行為だけど


貴方がまたね、と言ったから。


貴方に会えるのなら何を捨てても構わないと思ったから


私ももう一度彼女に会いたかった



ただ、それだけの純粋な思い。



自分の体の一部を切り取って彼女に持っていて欲しいような


貴方が呼吸を止めたその時は、私も同じように呼吸を止めたいような


貴方が幸せになれるなら、私は悪魔に命も売るような





決して世間が拍手を送るようなお涙頂戴といえるような美しい感情ではないもの


恋愛的な意味など存在しない独占欲とも取れる願い。


他人から見れば異常と言われるかもしれないが、これは正しく「愛」だったんだ。


貴方が私に与えてくれた、芽生えさせてくれた「愛」だった。



ねえ、ソウ


私は貴方のおかげで今漸く一歩を踏み出せたよ。


右手越しに美しい三日月を覗き込む。


排気ガスの漂う風を全身に浴びて咽てしまったが空を見上げて前を向く



私の少し先を進んでいた彼女の手をそっと、でも離れないように取った


幼さの残った、他人から愛嬌のあると言われていた顔のシミもニキビも一つもない綺麗な肌に水が一筋、また一筋と伝った。


彼女は私と同じように顔をくしゃりと歪ませて不格好な笑みを浮かべる。


手紙を彼女に渡せば彼女はそれをギュッと抱きしめた。



「本当に私たちって馬鹿だね、ソウ」


「・・・ごめんね、でも嬉しいよイブ」


ひんやりとした彼女の手はあの頃と少し変わっていたけど、それでもフニフニとした柔らかい感触はあの頃と変わらないままだった。


幸せで一杯だった青春時代の頃のように久しぶりに手を繋いで私たちは進んだ。



その日の夜、隣町の暗闇の中に光が二つポツリ、寄り添うように付いたらしい。

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