59.そろそろ毒を止めるぞ
飲料用の水が美味しくなった。飲み終えた口の中にほんのりと甘さが残る。べたつく甘さではなく、言われなければ中々気づけない程度の変化だった。
人々は水を飲む量が増え、汲み出される人工井戸に列を作った。その頃から、些細なトラブルが街中で頻発する。いつもなら穏やかな笑顔の八百屋の爺さんが客に怒鳴り散らし、評判の飯屋の看板娘が刃傷沙汰を起こした。子ども同士での喧嘩は殴り合いに発展し、若い夫婦が包丁で切りつけ合う事件が起き、街の治安が悪くなる。
泥棒の件数が減り、逆に強盗や襲撃が増えた。犯罪が悪質化して手が付けられず、衛兵の中にも犯罪者が出始める。混乱する街を見下ろす丘で、都を預かる領主が妻に殺された。浮気を咎めたという夫人の話だが、実際はただの勘違いであった。きちんと話せば分かる程度の誤解が、大きく膨らんで疑心暗鬼を生み出す。
悪循環の中、人々は出口の見えぬ地獄の中にいた。
「まあまあ、かな」
街と外の森を隔てる塀の上で、オレは笑った。まだ足りない。この程度を地獄とは呼ばせない。血反吐を吐き、のたうち回り、死ぬ事さえ出来ない苦しみを与えたかった。
「これで終わり?」
呆気ないと呟くエイシェットは少女の姿で、腕にしがみつく。オレが腰掛けた塀の隣で、ぶらぶらと両足を遊ばせた。人間には落ちたら死ぬ高さでも、彼女は気にしない。実際、このまま落下しても平然と両足で着地するのがドラゴンだ。元の姿に戻る必要がないほど丈夫だった。
「そろそろ毒を止めるぞ」
定期的に継ぎ足したギバの毒を止める。オレの言葉に、銀竜の少女は目を輝かせた。
「何が起きるの?」
エイシェットの銀髪を撫でて、眼下の街を見下ろす。つい先日ここで振り返った時は、懐かしさを感じた。今は愉快さが大半で、僅かな期待が混じっている。
「毎日食べたい美味しい果物があって、ある日突然全部なくなったらどうする?」
「探す、持ってる人から奪う」
狩猟で暮らす本能と、強者ゆえの傲慢さがドラゴンの基本だ。彼女の考え方は、まず自分が優先だった。そして弱い人間も同じだ。何かを奪い、誰かを蹴落とし、自分が満足する生き物だった。最強種族と卑小な人間の考えが似てるだなんて、世界を作った奴の皮肉は大したもんだ。
「今の話の果物が、アイツらのギバ入りの水だ」
エイシェットは目を輝かせた。
「わかった! 甘い水を奪う、戦う、お互い殺す」
カタコトで物騒な単語を並べる彼女に、正解だと褒める。この後、醜い争いが始まる。最初は井戸に集まって水を飲むだろう。だがギバが混入しない水は、人間達を満足させない。古い水ならば……誰かが気づくはずだ。オレが情報を流してもいい。すぐに奪い合いが始まるさ。
血で血を洗い、家族や恋人同士でさえ敵になる。オレが置かれた状況に近いだろう? 混乱の中で奴らはいつ気づくのか。ギバの毒が抜けた頃、備蓄が尽きていることに青ざめるはずだ。そこからが本番だった。
「サクヤ、頭いい。やり返すの正しい」
機嫌よく話を聞いてくれた銀竜が、オレを掴んで空に舞い上がる。都の上空にドラゴンが飛んでいることすら気づかないほど、人々は混乱に呑まれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます