本気?②
気が付いた時、俺はトイレの便器の前にうずくまっていた。何があったのか分からず、とりあえず立ち上がった。
頭の中に残っていたのは、誰かに対するイラつきと、誰かに対する申し訳なさ。後者はなんとなく、酒井のことだろうと思った。
もう一人の俺に何かあったのだろう。喧嘩でもしたか? 俺ってそんな戦闘民族な感じじゃないはずだけど。
もちろん冗談のつもりで、そんなことを考えた。でも分からないから、本当はそうなのかもって思うと、少しやるせなくなる。
また彼の日記を見てしまった。
目を疑ったよ。俺を差し置いてチューされただなんてさ。ずっと俺が彼女の相手をしていたというのに、いいとこ取りにも程がある。
胸が苦しかった。普段より長いその文言を読んでいるだけで、息が詰まりそうになる。
「俺は――駄目なんだ」
酒井が何もなく俺にチューするなんて、考えづらい。きっと、もう一人の俺が彼女のことを思った行動をしたのだろう。心当たりならあるし。途端に怖くなって動けなかったあの日のこと。
奴が彼女のことをどう思っているかは知らない。生きたくないと抜かしていたが、それでも、俺よりはマシだと思った。彼女を守る存在として。
「そんなことないよ」
酒井の声は優しかった。言葉を否定されたのに、気分は悪くない。そう言ってくれるのを待っていたわけじゃないけれど、安堵する自分を見てそうなんだと実感した。
元々、俺は存在していなかったのだ。彼が事故に遭わなければ、永遠にこの世界を知ることがなかった。そんな俺が、彼女の隣に居ていいはずがない。
「真村くんは、真村くん」
「え……?」
イマイチ言っている意味が分からない。俺がそんな顔をすると、彼女は照れ臭そうに笑った。
「こうして助けてくれた。あの日も、今日も」
先に病院に行って、と言われた時点で何か変な感じがした。だからこっそり彼女の後をつけたら、案の定だ。遠目で見ても分かるぐらいに動揺していたし、言い争っている声もよく響いた。だから動いた。
「でもこの間は――」
「そういうところは、変わっていないんだよ」
そうは言われても、励ましにならないのが本音だ。でも、何も言われないよりは嬉しい。それだけ彼女は真村真嗣という存在に寄り添ってくれているから。
「ありがとう」
「どういたしまして」
秋であるが、妙に体温が高い気がする。君が隣に居るからだろうか。そうだとしたら、俺にとって君の存在はそれだけ大きいモノになっているわけだ。
「ねぇ」
そんな思考の時に限って、この子は妖艶な聞き方をする。
「さっきの、ことなんだけど」
「……なんのことだ?」
「ほら――私のことを」
「あ、あぁ」
加えて、内容もこっ恥ずかしい。山岸にイラついていたせいで、好きだと断言してしまった。
思えば、俺が彼女と恋人になってから、一度も「好き」だと言っていなかった気がする。それを言ってしまえば、俺たちの関係が変わってしまうと、何処かで分かっていたから。
だけど、こうして面と向かって問われるとどうしたものか。あれは嘘だと言うわけにもいかないし、かと言って頷くのも。俺自身、酒井凪沙に対する感情がよく分かっていない。
「そこで黙られると傷つくなぁ」
「あ、わ、悪い。そんなつもりじゃ……」
「ふふっ。分かってる。揶揄っただけだよ」
この小悪魔感には慣れてきた。いや、そんなんじゃないことも。そうやって笑ってはいるけれど、本当は気にしてる。誤魔化そうとしているのはどっちだ、なんて言ってしまいたいぐらいだ。
「なら、君はどうなんだ?」
「へっ」
「俺は言っただろ。なら凪沙は?」
鳩が豆鉄砲食らったような顔をしている。俺の口から出てくることを想定していなかったのか? いや、彼女に限ってそんなことは無いはずだ。
病院までの道のりがすごく長く感じる。正確にはバス停までの道。いつもは一人で歩くことが多いせいで、こうして彼女のペースに合わせると中々進まない。
「む。何か変なこと考えてる」
「か、考えてないって」
「いいや。分かるもん。一緒に暮らしてるんだし。それぐらい余裕だよ」
そんな顔に出るタイプじゃないと思ってたけどな。だけど、彼女はよく人を見ている。それが事実だから、笑うしかない。結果、はぐらかされることになってもだ。
えへへと笑っている君は、本当に綺麗な顔をしている。こんな俺には勿体ないぐらいの美人。そんな彼女にチューされたもう一人の俺が羨ましいのが本音だ。
バス停に着いた。夕暮れのバス停。人に浮遊感を与える秋の雰囲気がある。見慣れた光景なのに、不思議な感覚。俺たち以外に誰も居ない。二人並んで、ベンチに座ることにした。
「先生には申し訳ないな。遅い時間に」
「でも良いじゃん。大人には甘えようよ」
「ははっ。確かにね」
こんなイチ高校生の相談に乗ってくれるのだから、神山先生は純粋に良い人だな。あの人が主治医で本当に良かったと思ってる。それは、ずっと付き添ってくれてた彼女もそうだった。
バスの時間まであと数分。このもどかしい時間を会話で埋めようかとも考えた。でも、こうやって黙って道路を眺めるのも悪くない。隣に彼女が居てくれるだけで、不思議と心が落ち着いた。
そんな夕焼けに、頬に感触。
永遠のように感じられた。出来ることなら、もう一度触れて欲しい感覚。心地よく、穏やかな波に溺れてしまう。
笑う彼女に、戸惑う自分。でも、恥ずかしさよりは、嬉しさの方が勝った。
ここまでしといて「好きじゃない」とは言わないよな。きっと。いや、それは俺が、俺たちが決めることなんだろう。
もう一人の俺は、何を思うだろうな。
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