ハウス

ざるそば

ハウス

 心臓が跳ねる音を聞きながらゆっくりとドアに手をかける。その家の中に入るのを躊躇っていると、スーツを着た男の人が優しく僕の手を引いてくれた。恐る恐る玄関へ足を踏み入れると、新しい両親は笑顔で僕を迎え入れてくれた。

 新しい母さんは、前の両親の事を何も聞いてこなかった。ただ、僕の境遇に同情するふりをしながら「もう大丈夫」とゆっくりと微笑んだ。

新しい両親は三十代半ばで、新しい母さんは前の母親の姉に当たる存在だという。この人達がいなければ今頃僕は保護施設に引き取られていたかもしれない。そう考えるとこの二人には感謝しかなかった。

 新しい父さんは僕を見て複雑な表情を作った。優しく迎え入れてくれはしたものの、どこかでまだ僕を疎ましく思っているのだろうか。

 少しもない僕の荷物をベランダに運び入れると、新しい母からこの家のルールを教わった。この家のルールとは言っても対して難しい事は無く、日常生活で気を付けるべきことを何個か習っただけだった。

 その日の夕食はハンバーグだった。前の家ではごちそうと言うに充分だったそれを頬張る僕を見つめながら、新しい母さんは微笑んでいた。

 このまま何事もなく穏やかに日々を過ごしていければいいと思っていた。


 新しい両親に引き取られ、新しく帰る家ができ、新しい学校が決まり、めまぐるしく日々は流れていった。始めこそ新しい生活に馴染めていたはずが、この家に来てから一週間がたった頃、少しずつぼろが出始めた。そのぼろは僕にも新しい両親にも出たものだった。

 お互いが徐々に素を出し始めた時、ある事実が浮かび上がってきた。

 僕と新しい母さんは性格が全く合わなかったのだ。僕が不快に思うことは、新しい母さんの快であり、新しい母さんが不快に思うことは僕の快だった。

 そのずれは金銭感覚、対人関係、趣味嗜好。あらゆるものに影響された。新しい母さんは大人だから、僕に合わせてくれた。しかし、僕はまだ子供だったから、感じたことをそのまま口に出してしまった。


 僕が新しい家に来てから二カ月が経った頃、新しい母さんは遠目でもはっきりそう認識できるくらいにやつれていた。

 僕は怒られると思った。新しい母さんにではなく、新しい父さんに。しかし、新しい父さんは新しい母さんの心配はするものの、僕の事は一切怒らなかった。

 僕はそんな新しい父さんを気味悪がった。新しい父さんと目が合った時、無意識に顔をしかめてしまうことも何度かあった。

 夜、新しい母さんと新しい父さんの話し声が耳につき起きてしまうことが何度もあった。

 新しい母さんは夜、新しい父さんに「私に子育ては向いてないのかもしれない」「親になる覚悟が足りなかったのかもしれない」と喚いていた。僕はどうしていいのか分からくて、この頃から前の家に捨てたはずの生きていることに対する罪悪感が戻ってきた。


 どんなにやつれても新しい母さんは僕の前で笑顔を欠かしたことは無かった。しかしその微笑みは以前の柔らかな微笑ではなく、硬く痛々しいものに変わっていた。

 家に以前の明るさは無くなっていた。ひたすら暗くなった家はなんだか前の家のように思えてしまった。

 それでも、新しい父さんは僕を怒らなかった。毎日、同じように新しい母さんの様態を気にし、ついには僕にまで「大丈夫か」と声をかけてきた。

 僕はもう、新しい父さんのことが理解できなかった。新しい父さんが僕とコミュニケーションを図ろうと近づいてくる度、僕は化け物を撃退するかのように新しい父さんに物を投げつけ反発した。

僕が新しい家に来てから半年が経った。その間に僕は新しい父さん、新しい母さんに強い猜疑心を抱くようになってしまった。


「あの子は元々あなたが生んだ子でしょ?今ならやり直せるから、もう一度あの子をかわいがってやって」

 ある朝、新しい母さんの話し声が聞こえてきた。懇願するように、諭すように電話越しの相手と話していた。

 なんとなく、察してしまった。どんな話なのか。その証拠として、かすかに聞こえた話し相手の声に聞き覚えがあった。

 その声の主は前の母さんだった。つまり、新しい母さんは妹である前の母さんに僕を返そうとしていたのだ。

 電話を切り、新しい母さんは震える手でこめかみを揉んでいた。その瞬間、僕は新しい母さんと目が合ってしまった。隠れていたつもりだったが、新しい母さんの目はしっかりと僕を捉えていた。

 ゆっくりと、まるでコマ送りのように新しい母さんの目から涙が溢れ出した。新しい母さんはそのまま僕を抱き寄せ、小さく「ごめんなさい」と言った。僕も新しい母さんに謝った。生きててごめんなさい。辛い思いをさせて、ごめんなさいと。

 僕と新しい母さんは声をあげて泣いた。慌てて新しい父さんが二階から降りてきた。

 新しい母さんが取り乱しながら新しい父さんに事情を説明していた。「私はなんてことを」と自分を責めながら。

 新しい父さんはずっと冷静だった。そして、新しい父さんも新しい母さんに謝った。子育てを任せっきりにしてしまったこと、新しい母さんの苦悩をしっかり理解しなかったことを。

 新しい父さんは丁寧に僕と新しい母さんを抱き寄せた。

「ずっと不安にさせてて、ごめんね」

 最後に新しい父さんが僕に謝った。僕は大きな声でまた泣いた。


 僕が新しい家に来てから一年が経った。あの日以降僕達は、お互いの溝を埋めるように生活をしていった。

 僕はまだ、母さんの事も父さんの事も完全には理解していない。しかし、僕が生きていることに対する罪悪感とはきっぱりと決別することができた。

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ハウス ざるそば @zaru36

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