瀬戸の夕凪
くさかべ
第1話
広島の7月中旬はとにかく暑い。
今日も朝から30度を超えていたというのに風が全くなかった。
そういえば先日地理の先生が「海側から吹く風が陸側の風に変わる瞬間に風がピタリと止まる夕凪という現象がある」と言っていたな。
もしかすると今がそれなのかもしれない。
いつもならこんな暑い日は早急に帰宅してクーラーのよく効いた部屋で読書でもするところだ。
しかし今日はと言えば、明日から夏休みであるということが関係してか、自分でも理由のわからないまま気まぐれに宮島まで行くことにした。
通学している高校から宮島へ行くのは簡単だ。
広島電鉄に乗って2、30分揺られていれば宮島口駅に着く。
それから180円払ってフェリーに乗り込むだけだ。
「この夏休みは三者面談があるから、各自志望大学や学部を決めてくるように。」
フェリーからぼんやり瀬戸内の濁った海を眺めながら、担任の教員が帰りのホームルームで言っていたことを思い出す。
自分が何になりたいのか。
大学受験を1年ちょっと先に控えた今でもピンと来ていない。
どの大学に行くか。何の学問を学ぶか。
周りの友人たちは医学部へ進むと言っているし、僕もこのまま流されれば医者になるのだろう。
でも別に人を救いたいというような動機があって医者になりたいわけじゃない。
ただ単に医学部が偏差値的に圏内であるというだけで、医学部なら周りも納得するだろうという消極的な理由しかない。
なりたいものなんてない。別に何かがしたくて勉強してきたわけじゃない。
なんとなく周りがそうしていたからそれに合わせてきただけだ。
そんなことわかってる。
「まもなく桟橋へ到着いたします。着船の時に船が桟橋に強く当たることがございますので、席にお座りいただくか、手すりをお持ちくださいますようお願いいたします。」
放送を聞いて我に返る。
なるほど、僕は自分のこれまでの軸のない生き方にセンチメンタルになっていたのか。
海辺に来るにはなんとも傲慢で平凡な理由だ。
一人恥ずかしくなって笑ってしまう。
---
宮島に来たならば絶対に訪れるべきもみじまんじゅう屋というものがある。
宮島桟橋を出て右の方へ10分ほど進むと商店街があり、そこの真ん中ほどにある藤い屋というお店がそうだ。
ここでは焼き立てのもみじまんじゅうを店内で食べることができる。
焼き立てとそうでないものは全く味が違うのだ。家で冷えたもみじまんじゅうを電子レンジで温めてみたりしたこともあったが、外側のサクサク感や餡のバランスの良い温かさはどうにも再現できなかった。
「はい、どうぞ。ごゆっくり。」
店員がもみじまんじゅうと一緒にお茶を持ってきてくれた。
お礼を言おうとしたが、うまく声が出なかった。
知らない人へ話しかけるというのはどうも苦手だ。
もみじまんじゅうをとりあえず一口齧って、バッグからツァラトゥストラを引っ張り出す。
僕自身は全く面白いとは思わないが、クラスで流行っているのでとりあえず読んでおこうというわけだ。「超人」には程遠い精神だと自分でも思う。
---
3つ目のもみじまんじゅうに手を伸ばそうとして本から視線を上げる。
そして、隣の席に座っている女の子が泣いているらしいことにようやく気づいた。
えっ、
どうしたんだろう。
年齢は同じくらいかちょっと上に見える。
座っていてもわかるくらい身長が高い。175cmくらいはあるんじゃないか。
一口も齧っていないもみじまんじゅうを片手に持ったまま、静かにふぅう、と息を殺すように泣いている。
周りをそっと見渡しても誰かが気に留めている様子もない。
どうしよう、声をかけた方がいいのか?
でも僕が声をかけたところで何かできるのか?
というか声なんかかけたら不審者なんじゃないか?
そもそもなんて声をかけるんだ。あ、「大丈夫ですか?」でいいのか…。
いや、
でも、
見ず知らずの女の子に声をかけるの?
僕が?
急にこの場にいることが気まずくなってしまう。
放っておいて欲しいかもしれないし、などといろいろ理由をつけながら、お店を出ようともみじまんじゅうを口に押し込んで席から立ち上がる。
「お前、本当にそれでいいのか?泣いている子を見なかったことにするのか?」
罪悪感が僕を責める。
今ここでこのままお店を出たなら、
数日は「お前はあの時困っていそうな人を見捨てたんだよな」と自分のことを責めてしまいそうだ。
そんなの高校二年生の夏休みの始まりに相応しくない。
僕は僕のために声をかけるんだ。この子のためじゃないから恥ずかしくない。
意味不明な理屈を自分の中でこねながら、少し大きめに深呼吸をして、
「あの、…大丈夫ですか?」
震える声で彼女に声をかけたのだった。
瀬戸の夕凪 くさかべ @mizuki_kusakabe
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