私はインドに居たころは仏陀でした

白川津 中々

 仕事中に心が荒みなんともならない日が続くので近頃はスッタニパータやら聖書の一節をブラウザ上に表示させ安静を保とうとしている。


 気分が沈むのは生来の癖みたいなもので、幼少の頃から小さな事でクヨクヨしては親から「小心者」と嘲笑われたものだ。俺の事をよくも知らないくせに随分と勝手を述べてくれた。子の心親知らずこの上ない。ここから得られる教訓は、人間とは例え血の繋がりがあったとしても分かり合うなど無理。というものである。


 それを考えるとスッタニパータの「犀の角のように独り歩め」という言葉は府に落ちる。あれこれ考えてもどうにもならないのだから、自己を確立し独立独居を旨として生きなさいという思想は理にかなっているように思えるのだ。が、執着からの解放という矛盾に目を向けると途端に陳腐な文章に感じてしまい、また疲弊する。俺のような凡夫には理解できないだけなのだろうが、そう認識してしまった以上もう仕方がない。そもそもシッタールダが涅槃へ至り何百年と経過しているのだから分かれという方が無理な話だ。いわゆる末法である。

 それに俺は俗人だ飯も食いたければ女も抱きたい。金が欲しい。酒を飲みたい。そんな人間が教典やら説法の一部を摘んで是非を問うというのは、哀れではないか。


 そうだ。俺は救われないのだ。生涯に渡り咎を背負い生きていくのだ。


 ならば……どのように生き、死すともそれは……

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