第35話 隠居
この回の主な勢力、登場人物 (初登場を除く)
龍造寺氏 …肥前佐嘉郡を中心に勢力を張る一大国衆。少弐氏に従う
龍造寺
龍造寺
龍造寺
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勝ち戦の直後にそれを言うのか──
激戦となった木原の戦いを終え、帰城してきた家純と家門を待っていたのは、家兼の突然の隠居宣言。
不意を突かれた二人は、座ったまま固まるしかなかった。
「ど、どういう事なのですか、父上? 御体でも悪くされたのですか?」
次期当主に指名された家純が、狼狽えて尋ねる。
「確かに体力気力がここ数年でめっきり落ちた。認めたくはないが理由の一つではある。だがそれよりも、わしがこのまま当主の座に居座り続けていては、家のためにならん」
「家のためにならん……? 仰ることが良く分かりませぬ」
「わしは多くの者から恨まれておる」
そう言って家兼は、書斎にあった書状を幾つか二人に渡す。
そこには忍びや、親しい山伏たちから送られてきた、近隣の国衆や地侍達の現状が記されていた。
家兼は密かに憂慮していたものの、現実は厳しかった。
大内との和睦締結の件で、交渉担当だった家兼を非難する声が小さくなかったのだ。
中には家兼が大内と通じていると噂し、信じてしまう者も現れる始末。
そして木原の戦いにおいても、村中本家の様に冬尚に遠慮し、水ケ江家と距離を取る勢力もあった。
威勢は拡大していたとはいえ、水ヶ江家の立場はまだ肥前の一国衆に過ぎない。
近隣戦力との関係悪化は領国崩壊のもと。憂いた家兼は、自身の隠居と言う形でけじめを付け、新当主家純の元で改善を図ろうとしたのである。
「わしは今回の戦いを、当主としての最後の務めにしようと決心していた。そして勝ち戦で終えられた。肩の荷が下り清々しい気分じゃ」
裏表のない笑顔を家兼は息子たちに見せる。
それに対し、真意を聞けて息子たちも安堵の表情を浮かべるのだった。
後日の評定において、翌年吉日を選んで代替わりの儀式が行われる運びとなった。
ただ家の軍政は、引き続き家兼が握り続けることになる。
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天文五年──
九月の資元自刃から慌ただしく過ぎていったこの年だが、龍造寺一族においても一つの事件が起きていた。
「何っ、豪覚が倒れただと⁉」
驚いた家兼にそれを知らせてきたのは、水ヶ江城から直線距離にして一里半余り(約6.3kmほど)西に離れた天台宗の寺、宝琳院の使いの者だった。
家純次男の豪覚は、当時、龍造寺家と縁が深いこの寺の住職の座にあったためである。
「してその容体は?」
「痰や咳が止まらず、体中が痛いと申されておられます。医師の見立てに従い、伝染を避け、現在は別室にて療養しておられまする」
「分かった。城から必要なものあれば届けさせる。わしも回復を祈祷して進ぜよう」
豪覚はまだ二十代と若い。
住職としての将来を期待していた彼の容体を、家兼や龍造寺一族は祈らずにはいられなかった。
ところが彼の容態は快方と悪化を繰り返し、療養の長期化を余儀なくされてしまう。
その間、体力は少しずつ落ち、日常生活に支障をきたすようになってしまっていた。
「恐れながら医師が申すには、この状況が続くと、やがて命にかかわるとの事でござります」
家純から病の深刻さを聞いた家兼は、一つの決心をした。
豪覚が亡くなった時に備えなくてはならない。そこで自分のひ孫で周家長男の、長法師丸(後の隆信)を次の住職とするべく、豪覚の弟子として出家させたのだ。
しばらくして当時七歳だった長法師丸は、宝琳院に入り円月と号した。
こうして同寺の後継者問題は、とりあえずの解決をみたのだが……
翌天文六年の春、再び病魔が水ケ江家を襲った。
「何っ、今度は家純が倒れただと⁉」
報告を受け驚愕した家兼は、家純のいる水ヶ江城
だがそれは医師に止められた。
「熱に加え咳が止まらず、体中が痛いと訴えられておりまする。病が殿にうつっては一大事。なにとぞ御遠慮下さりませ」
それは豪覚とよく似た症状。
場所は違えども、時期を共にして親子が同じ病に伏せってしまったのである。
そして経過も同様、快方と悪化を繰り返すばかり。
今年早々での代替わりを望んでいた家兼だったが、その時期は不透明になってしまったのだった。
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一方、解決の糸口が見えないこの状況を、興味本位で嗅ぎまわる男が龍造寺一族にいた。
家門の次男、孫九郎である。
当時孫九郎は、まだ元服して数年しか経っていない若輩者。
中館にて軍記物を読んでいた家門の元を彼は訪ねると、にやけ顔でこっそりと囁いた。
「父上、父上、先程侍女たちから耳にしたのですが、叔父上はどうも、床から抜けられないことを幸いに、宝琳院から借りた漢詩の書を読みふけっておられるそうでござる」
「そうか、仕方あるまい。他にやることも無いのであろう」
「それにお気に入りの侍女しか部屋の出入りを認めていないとか。その侍女は叔父上のお手付きになったのでは、と噂になっておりまする」
「病が城内に広がらぬ様、出入りの者を限定するのは当たり前ではないか。それがどうした? くだらぬ噂だ、放っておけ」
「果たしてそうでしょうか? 叔父上が病に
そこまで聞いて家門は本から目を離し、孫九郎に向き合った。
「何が言いたいのだ?」
「それがしが思うに、叔父上は家督を譲られるのが嫌で、重い病のふりをして、悠々自適の日々を送っているだけではないかと」
「何だと……」
家門は烈火のごとく怒った。
「下衆の勘繰りなど聞きたくもない! 実際医師も兄上が病である事を認めているではないか! 今まで家のため懸命に働いてこられた兄上が、その様な真似をするはずが無かろう!」
「病は本当かもしれませぬが、その程度は実は風邪にすぎず、豪覚殿の真似をして殿が相続を諦めるのを待っているのでは? 父上、これは好機にござる」
「好機?」
「当主の座が父上に転がってくるかもしれませぬ」
孫九郎の推測を叱ろうとする家門の口が止まる。
風邪かどうかはともかく、確かにこの状況が続けば己に当主に指名される可能性は高くなる。
肥前の一大国衆の当主となり、その将兵を動かすのは、さぞ愉快だろう。
しかしそんな思惑よりも、家門は孫九郎の父として、邪推を重ねる彼の性根を叩き直すほうが先だった。
「よく分かった。ではそなた、これから兄上の部屋に行って、暫く居座っておれ」
「はい?」
「風邪は人にうつすと治ると言うではないか。その通りならそなたが風邪を引き、兄上は治る筈だ」
「えっ…… しかし風邪でなく本当に重病だったら?」
「兄上や豪覚と同じ苦しみを味わえ。己の浅慮を恥じながらな。そなたが言い出したことだ、その身を以て証明してくるがいい」
何だそれは? どちらにしろ、自分は苦しむだけではないか?
と、孫九郎は内心で突っ込みを入れたものの、口に出して父の逆鱗に触れる度胸はなかった。
「えーと、その、遠慮しておきまする。御無礼つかまつりました……」
このままここに居ると何を命じられるか分からない。
身の危険を感じた孫九郎は平謝りすると、そそくさと立ち去ろうとする。
だが、そんな分かりやすい魂胆を、家門が見破れないはずがなかった。
「待て! その様な噂話にうつつを抜かしているとは、そなた暇だな? よし、あれを貸してやる」
そう言って家門は立ち上がると、部屋の棚から数冊の本を孫九郎に手渡した。
「平家物語の写本……?」
「軍略を身に付けるにはもってこいの軍記物だ。長法師丸はこれを夜な夜な、乳母に読み聞かせてもらい、父上の前で壇ノ浦の下りを
「あの、もし上手く答えられなかったら、どうなるのですか?」
「鉄拳か、それとも頭丸めて宝琳院に送り飛ばし、長法師丸の
身から出た錆とはまさにこの事。
七歳の子に頭を下げなくてはならない、なんて事が知れ渡れば、家中の笑い者である。
とっさに出そうになった苦虫を嚙み潰したような表情を、孫九郎は慌てて押し殺すと、数冊の写本を受け取り、老婆の様な足取りで去っていくしかなかった。
するとそこに入れ替わりで、一人の家臣がやってきて跪いた。
「家門様、殿がお呼びでござります」
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時はすでに夜を迎えている。
こんな時に何用か、と不審に思った家門が家兼のいる本館に赴くと、そこにはすでに周家、純家、頼純ら家純の子達の姿があった。
何かは分からないが、これから話合う事はおそらく一大事だろう。
そう察した家門の頭に、一瞬、孫九郎の推測がよぎる。
(当主の座が父上に転がってくるかもしれませぬ)
まさかな……と思いながら彼は席に着くと、上座に現れた家兼は諦めの念を込めて、慎重に打ち明け始めた。
「先程、医師と会ってきた。その者が申すには、残念だが家純の病は完治する見通しが立たぬそうじゃ」
「では代替わりは日延べ(延期)となりましょうか?」
兄の病状の深刻さを受け止め、家門が神妙な面持ちで尋ねる。
「何を申すか、そなたがおるではないか」
「えっ?」
「年を取って気が短くなった。もうこれ以上わしは待たんぞ、そなたが替わりに当主を務めるのじゃ!」
「ええっ……⁉」
「皆も左様心得よ、よいな!」
『ははっ!』
唖然茫然の家門。
そして彼の心中など分からない、居合わせた者達から次々に、「おめでとうござりまする」と祝福の声が飛ぶ。
それに対し動揺した家門は、心ここに在らずの返礼してしまうのだった。
翌年、天文七年(1538)二月、当主就任の儀を行い、家門は水ケ江龍造寺の二代目当主となった。
木原の戦い後の隠居宣言から一年以上、遅れに遅れて家兼はようやく代替わりを果たした。
そして同時に、剃髪して入道
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