第36話 冬尚来訪
龍造寺氏 …肥前佐嘉郡を中心に勢力を張る一大国衆
龍造寺
龍造寺
少弐氏 …東肥前の大名 大内氏に滅ぼされ、小田氏の庇護下にある
少弐
少弐
馬場
江上
小田
筑紫
大内氏 …本拠は山口 中国、北九州地方に勢力を張る西国屈指の大名
大内義隆 …大内家当主
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天文七年(1538)二月、ついに家兼は家督を家門に譲った。そして剃髪し剛忠と号したのである。
当時剛忠は八十五歳。棺桶に片足どころか、すぐに横たわったとしてもおかしくはない歳である。
彼から数世代後の江戸時代でも、平均寿命はだいたい三十から四十くらいと言われる。疾病や有事での落命の危機をくぐり抜け、彼はその倍以上の歳月を生き抜いた。
そしてなお、「引き続き家の軍政は自分が実権を持つ」と譲らなかったのだ。彼の壮健さを語るには、「並大抵のものでは無い」なんて言葉ではとても足らないだろう。
一方で、病魔に侵され騒動となっていた二人には、対照的な未来が待っていた。
家純は療養の甲斐あって、暫く後に復帰を果たすことになる。
しかし豪覚は同年、ついに帰らぬ人となってしまう。彼が務めていた宝琳院の住職の座は、円月(長法師丸、後の隆信)が引き継ぐことになるのだった。
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そんな中、蓮池城では冬尚と覚派の間で、御家再興の話し合いが行われていた。
木原の敗戦で水ケ江家を敵に回してしまい、威勢を落としていた冬尚だったが、ここに来て好機が巡って来たのである。
好機とは、長年続いてきた大内、大友戦争の終結であった。
同年三月下旬に両家の間で、大内家を上位とする同盟が締結。
それに伴い、筑前の
以後、大内の視線は安芸を戦場とする、尼子との戦いに向けられることになる。
当主義隆は翌年から山口を離れ、安芸遠征に進発。天文十二年五月に月山富田城を攻めて敗北を喫するまで、彼は戦場にその身を置き続けたのだった。
鬼の居ぬ間に勢福寺城を奪回し、再興を図るべし。
決心した冬尚は覚派に相談を持ち掛けたのだが、彼の返答は冬尚の意に沿うものではなかった。
「水ヶ江と再び
「御館様、それこそが再興の肝でござります。御寛容下さりませ」
「いや、しかしだな……」
そう言って冬尚は返事を濁そうとする。
しかし覚派は見抜いていた。
冬尚は扇子で手のひらを叩きながら、渋い顔で明後日の方向を向いている。
苛立っているものの、提言の有効性は認識はしているようだ。
「今まで御家の旧臣達と連絡を取って参りましたが、残念ながらその数は極めて少数。これでは勢福寺城を奪回したとしても、大内方の不意に襲撃に対応できませぬ。近隣の国衆、中でも水ヶ江とは懇意にしておかねばなりませぬ」
「そなたや江上、頼周らがおるではないか。肥前の東端でも筑紫正門が頑張っておる。それで何とかならんのか?」
「甚だ厳しいと思われまする。それにそれがしが一番危惧しているのは、水ヶ江が大内の傘下に
「大内に奔る⁉ そんな馬鹿なことが──」
ある訳なかろうと笑いかけて、冬尚は考え直す。
あり得ない話ではない。水ヶ江だって上位権力の傘下にいたいはず。少弐との関係が悪化したのなら、その対象は別に大内でも良いのだ。
その場合、困るのは間違いなく自分だ。
大内と傘下の者達により四面楚歌。圧迫をもろに受け、御家再興など夢のまた夢になってしまう。
しかしわざわざ逆賊に指定して、その事を近隣に触れて廻らせ、決戦の申し出までして追い込んだ彼らに対し、どの面下げて「
試しに冬尚は剛忠や家門に対し、己が頭を下げる姿を思い浮かべてみる。
体中に走る悪寒── あり得ない。
大宰少弐の名族が肥前の一国衆如きに、あの忌々しい爺に、何という屈辱。
彼はとっさに、頭の中で思い描いた場面を打ち消す。
そんな彼の心中までは見抜けるはずもなく、蓮池城の冬尚の書斎では覚派の説得が続く。
しかし面目を重んじた冬尚は、彼の提案に首を縦に振る事はついになかった。
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しかし翌天文八年に入り、少弐を巡る情勢は一層厳しさを増していた。
この年、筑前、肥前は凶作に見舞われ、飢饉が発生。
肥前においては道の至る所で骸が横たわる有様で、小田家もとても少弐再興に手を貸す余裕は無くなってしまっていた。
さらに冬、早馬により蓮池にもたらされた報せが冬尚を落胆させた。
「申し上げます! 筑紫正門様、筑前にて大内方国衆、秋月文種と戦い敗死!」
もはやこれ以上待っていても事態は好転しない。冬尚はようやく腹を決めた。
とある冬の日、水ヶ江城。
朝、城門前にて門番が欠伸をしていると、朝日を背に数人の者がこちらに向かってくるのが見えた。
何奴……?
門番は目をこすってみるが幻ではない。
しかしこの時間に来訪する予定の者がいるとは聞いていない。
では
やがて見えてきた彼らの中心にいたのは、烏帽子をかぶり直垂姿の青年だった。
青年は緊張した面持ちで馬から降りると、城門へと視線を向ける。
門番は彼の姿を見て絶句した。
「あ、あ、貴方様は……⁉」
「大宰少弐冬尚である。そなたたちの当主と隠居に話が合って参った」
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しばらくして入城を許された冬尚は、一人広間の上座へと迎えられていた。
そこは何とも言えない異様な空気に包まれていた。
敵対しているかつての主が、針の
斬られるかもしれない危険を冒してまで。
家門と剛忠の後方で居並ぶ水ヶ江一族と家臣達は、複雑な思いを抱えたまま、その対面を固唾を飲んで見守っている。
事前の通達は無かった。
通達すると、そこで断られたら終いだと思ったのかもしれない。
そう察した家門は、冬尚が座ったのを見て、彼の真意を聞き出そうと口を開く。
「先年の木原での戦以来、御館様との誼は断ち切られたものと思っておりました。にも関わらず、この度の不意の御来訪、いかなる御用向きでござりましょう?」
「まずは
「その一件につきましては、まことにおいたわしい限りでござった。謹んでお悔やみ申し上げまする」
「かたじけない。父上もあの世で喜んでおられるだろう。その父上は御家再興の望みをわしに託された。わしは何としても父上の宿願を果たさねばならぬ」
そこまで家門に言うと、冬尚は畳に手を付いて深々と頭を下げた。
「過去の遺恨もあろうが、どうか当家の再興に力を貸してほしい」
その場は緊迫感を残したまま静まる。
何となく気付いていたのだ。おそらく再興の助力を申し出てくるだろうと。
なので皆、驚くことなく冬尚に厳しいまなざしを向けたままだった。
ただ違っていたのは、見栄っ張りで時には傲慢ともいえる言動を見せていた、彼の振る舞い。
目の前にいた冬尚は、いくらか角が取れて、神妙に自分を律する事が出来る様になっていた。立場と生い立ちが、彼を大きく変えていたのだ。
だが好印象を受けたからと言って、家門は安易に承諾する訳にはいかない。
「恐れながら先の戦いで、我らの将兵達にも少なからず戦死した者がおりまする。この原因は御館様が小田に対し、当家の討伐を指示したからに他なりますまい」
「そうではない。あれは讒言によるものだ」
「讒言? どなたが申された?」
「小田の家臣だ。そやつも戦で負傷して亡くなった。覚派も騙されていて、戦となってしまったことを大変悔いており──」
「その様な根拠のない釈明、誰が信じるとお思いか!」
家門は冬尚の言葉を遮り、声を荒げる。
自分も覚派も騙されていた、原因を作った者はすでに死んだから、元どおりにの関係に戻ってほしいなど、あまりにも虫が良すぎるというもの。
冬尚はその威に押され、一瞬押し黙ってしまう。
しかし己を追い込んでわざわざ水ヶ江に来訪してきた彼も、ここで引き下がるわけにはいかない。
「
直後、皆の目の前には、下座に降りて家門と隣にいた剛忠の前で、深々と頭を下げる冬尚の姿があった。
かつての主にそこまでされては心動かない訳がない。
家門は大きく息を吐いて心を落ち着かせると、冬尚に頭を上げるよう促す。
そして剛忠の方を向いて尋ねた。
「父上、如何に思われまする? それがしは未だに腑に落ちかねるところもござりますが?」
「ふむ……」
少しの間思案していた剛忠だったが、やがて冬尚に向き合った。
「御館様の熱意は確かに承り申した。されど一つ約束して頂きたい事がござる。今後も当家を大事とお考えなら、その証を示して下さりませ」
「証?」
「御館様の領国経営に携わるにあたり、当家に何らかの地位を保障して頂きたい」
これまで少弐家中において、水ケ江家の存在はただの国衆だった。
しかし家中の長老として尊厳や、提案が的確であったことから、剛忠は重用されてきただけにすぎない。
冬尚は水ケ江家の待遇についてはどれ程考えているのか。
再興する事ばかりで、全く頭にないのなら話にならない。
彼の言葉に偽りが無いのなら、しかるべき地位に起用するのは当然だろう。
対して冬尚はわずかに考え込んだ後、意を決して口を開いた。
それは家門、家兼を驚かせると共に、誠意を伝えるのに充分なものだった。
「分かった。では執権の地位を約束しよう」
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翌天文九年(1540)周辺国衆の助力を得て、冬尚はようやく勢福寺城への帰還を果たした。
そして家門を執権に任じ、その補佐に馬場頼周と江上元種を就かせ、執政体制を整えたのであった。
新生少弐家は船出の時を迎えた。
前途は多難だ。だが、とりあえず足場は固められた。
機を見て東肥前に威勢を伸ばし、ゆくゆくは大宰府を我が手に取り戻す──
城館の庭に立ち、有明海を眺めながら冬尚はそう夢想する。
だが慌てて駆け込んできた一人の家臣により、彼は現実に引き戻されるのだった。
「御館様、一大事にござります! 西肥前の有馬が大軍を率い、小城郡に向かって侵攻を始めたとのこと!」
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