第28話 三津山夜襲(後) 観音菩薩の加護
この回の主な勢力、登場人物(初登場を除く)
龍造寺氏 …肥前佐嘉郡を中心に勢力を張る国衆。少弐氏に従う
龍造寺
龍造寺
龍造寺
少弐氏 …本拠は勢福寺城 龍造寺家を傘下に置く東肥前の大名。大内氏と敵対
少弐
大内氏 …本拠は山口 中国、北九州地方に勢力を張る西国屈指の大名
陶持長 …陶一族で大内家の重臣
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降り止まない雨は無い。この長雨もいつかは上がる。
それは長きに渡る陶勢の侵攻も同じこと。
何時かは終わる。終えてみせる、我等の手で──
天文三年(1534)七月十五日、家兼率いる水ケ江勢三百は、三津山籾岳に本陣を置く陶勢に夜襲を仕掛けるため出立。
数日に渡り大雨に見舞われた、佐嘉郡、神埼郡の水没した道を、時には泳ぎ、時には船や筏を漕いで移動し、夜中になって籾岳の麓に至った。
しかし転倒や転落の危険がある夜間の進軍は神経すり減らし、雨に濡れた蓑や鎧が兵達の体力を奪ってゆく。
案じた家兼はこの地で一時小休止。
暫くした後、将兵達を自分の周りに集めて告げた。
「……作戦は以上じゃ。最後に申しておく、我らは三百、敵は寝静まっているとはいえ十倍以上の兵がおる。これより先は死地。しかしじゃ──」
とそこまで語ると、家兼は「皆に見せたいものがある」と前置きして、懐からある物を取り出して見せた。
それは水に濡れ、所々染みが目立つ、小さな木像だった。
およそ戦場に相応しくない物。怪訝な表情を浮かべた家純が尋ねてくる。
「父上、これは観音像でございますか?」
「そうじゃ、これが今朝、水ヶ江城前に流れ着いておった。観音菩薩様がの、戦に赴く我々を加護してやろうと参られたのじゃ」
「何と、その様な吉事が今日あったとは……!」
「うむ。皆の者、御加護の下、心を一つにして励むのだ。そうすれば我等は必ず勝てる。よいな!」
『ははっ!』
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足音は聞こえない。
鎧の金具が擦れる音も聞こえない。
付近に吹き荒れる強風が木々のざわめきを生み、戦が奏でる音を飲み込んでいく。
同様に弓をつがえ放つ音も、矢が刺さり倒れた者の言葉にならない声も、聞こえない。
その倒れた見張りの者達の脇を通り、水ケ江勢は進む。
目指すは山頂手前の平地に置かれた、陶勢の陣である。
陣は大きく二つに分けて構成されていた。
一つが大将格の武将達が寝泊まりする建屋がある山頂付近。
そしてそのすぐ下にある、兵達が寝泊まりする平地である。
まず水ケ江勢は平地の南口から密かに侵入すると、一丸となってすぐ西側の陶勢に襲い掛かった。
たちまち互いの兵達の剣戟が、激しく火花を散らす──
……なんて展開にはならなかった。繰り広げられたのは、ただただ一方的な虐殺だった。
水ケ江勢は気配を消したままゆっくりと敵兵に接近。
至近距離に達すると迅速に包囲し、次々と敵兵を屠っていく。
鬨の声は上げない。敵にも悲鳴を上げさせない。
その戦いぶりは武士には程遠い、さながら暗殺集団の様だった。
確かに陶勢は兵数に勝っている。
しかし彼らの殆どは、数十人の部隊ごとに分かれ、雨露を凌ぐため、木々の下で蓑を着たままでいる。そして多くの者が泥酔しているのだ。
これを三百の兵で包囲し、部隊ごとに各個撃破してゆく。
これなら少数の水ケ江勢でも余裕で勝てた。勝ち続けられた。
陶道麒入道が率いる陶勢──
それはあまたの戦で勝ち星を重ね、大内家の中核を成す精鋭部隊である。
今、その戦歴に汚点が刻まれようとしていた。
暗闇と風雨の荒ぶりがそれを後押しをする。
彼らは水ケ江勢の槍により、酒による寝落ちから永遠の眠りへと、次々に導かれていったのだった。
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「殿、一大事にござります!」
だが報告を聞いた道麒は冷静だった。
すぐに半身を起こすと、努めて穏やかな口調で持長に尋ねた。
「して南口はどうじゃ? まだそこから敵兵が乱入し続けておるのか?」
「いえ、敵兵は今のところ、陣の西側で暴れている者達のみにござります」
「よし、ならば小勢であろう。
持長は一礼すると、急いでその場を後にする。
そして複数の伝令に命じ、陣の方々に道麒の指示を触れ廻らせた。
その一方で自身も手勢を率い、陣の西側へと向かったのだが──
残念ながらこの道麒の指示は誤っていた。
すでにこの時、西側に水ケ江勢の姿は無かったのだ。
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西に替わり、混乱の極致に達していたのは南東の陶勢だった。
水ケ江勢は他方面の陶勢が集まって来る前に西側から切り上げ、南東へと転じていたのである。
展開されたのは西側同様の地獄絵図。
水ケ江勢は次々に敵部隊を見つけて襲ってゆく。
何せ木々の下に向かえば、大抵寝入った敵兵が潜んでいる。探す時間は大きく省けていた。
もちろん包囲される前に気付き逃げ出す兵もいる。
しかし逃げる方向を誤れば最期。
暗闇と恐怖のあまり我を失い、崖から踏み外して転落する者が続出していたのだ。
そして戦意が違った。
水ケ江勢は死に物狂いで暴れまわる。
ここは死地。十倍以上の兵を相手にし、全滅の危機と隣り合わせの中に身を投じている。自分がやらないと乗り越えられない。少数だが彼らの心は一つにまとまっていた。
一方、雨風に晒され続け、寝落ちしたところに無理やり叩き起こされ、と陶勢の兵の体はすぐには動かない。
そして多勢の中に身を置いていれば、誰かが何とかしてくれるだろうと思いたくなる。自身に得体の知れない恐怖が迫っていれば尚更だ。
「おい、何だか分からんが皆逃げてるぞ! とりあえず俺達も逃げるぞ!」
恐怖の中、暗闇と風雨により、視覚と聴覚による情報を欠いた人の心理は、およそこんなもの。
数人の脱走兵を見て、数人が共に逃げる。
それは十数人の脱走となり、更にそれを見た十数人が逃げ出す。
脱走者は南側全体に及び、その数は雪ダルマ式に増えていったのだった。
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だが、水ケ江勢が暴れられる時は、終わりを告げようとしていた。
山頂から陣鐘が鳴り響いてきたのだ。
「家門、陣鐘の音だ、間もなく陶勢全軍が押し寄せてくる! 手筈通り撤退するぞ!」
「合点承知!」
家純と家門は周囲にいた敵勢に恫喝し、向かってゆくと見せかけて反転。
一目散に南口へと向かってゆく。
「ええい、逃がすでない! この屈辱、晴らさずにおられるか!」
一方、この時になって、持長はようやく水ケ江勢の姿をを見つけていた。
彼は追撃するべく兵達を叱咤するものの、すでに時遅し。
水ケ江勢の殆どはすでに下山を始めており、率いた手勢も少なく、彼は諦めるしかなかったのである。
やがて迎えた夜明け──
夜襲の爪痕が次第にはっきりしてきた。
草木の茂みから次々見つかる死体。
その周囲には刀や弓矢、等の武具が泥をかぶって散乱し、のぼりや旗は踏まれてへし折られている。
被害の多くは平地の西側と南側に集中していた。
水ケ江勢は始めから大将首を狙おうとはしなかったのだ。
もちろん家兼も大将首を取れば勝ち戦、敵は算を乱して敗走する事は知っている。
しかし大将格を狙えば、当然陶全軍に包囲され、十分の一以下の兵数の水ケ江勢は全滅する危険があった。それを避けたのだ。
そしてこれでも充分な効果があった。
持長は、残った将兵から被害の報告を受けてまとめると、沈痛の面持ちで道麒へと伝えた。
死者、負傷者共にすでに二百を超え、更に増えるものと思われること。
加えて脱走した者も相当数いるとのこと。
対して道麒からの返事は無く、陣中は静寂に包まれた。
皮肉なことに、この時になって、ようやく陶勢将兵の思いは一つとなった。
突破口を見出せない勢福寺城攻め、苦杯を嘗めさせられた水ヶ江城攻め、そして今回のまさかの夜襲。兵の士気はすでに底尽いていた。
この状況で残された選択肢は一つだけ。
それを口に出したのは、他ならぬ道麒自身だった。
「皆長きに渡り大儀であった。これ以上の滞在は無益、すぐに陣を払い筑前へと撤退する。よいな」
「ははっ」と一礼する諸将の顔に、悔しさと憤りの表情が次々と浮かぶ。
それを見て道麒はもう一言付け加えた。
「だが撤退は一時じゃ。我等は必ずこの地に戻ってくる。それまでこの敗戦を忘れるな!」
陶勢は来た時とは違い、
勢福寺城の少弐勢の追撃を避け、最短の経路を選択したのだった。
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一方、凱歌を揚げた水ケ江勢は、その帰路、水が引いたのを見て、勢福寺城を訪ね戦勝を報告した。
水ヶ江勢の軍功は、城内の人々の鬱憤を大いに晴らすもの。
特に面会に応じた資元の喜び様はひとしおだった。
彼は水ケ江家に対し、
(観音菩薩様の御加護を賜り、万事上手く運び申した……)
帰城後、家兼は観音像を懐から取り出し、深い敬意を込め手を合わせる。
そして城の南に慈教院という新築の堂を建立して安置したのだった。
田手畷の戦い、水ヶ江城の攻防、そして三津山夜襲。
それら軍功により、国中に轟いた家兼と水ケ江家の威勢。
それは村中家、与賀家を遥かに上回り、少弐家中においても、並ぶ者がないほどに強大なものとなったのだった。
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