第14話 大宰府再奪還
主な勢力、登場人物
龍造寺氏 …肥前佐賀郡を中心に勢力を張る弱小国衆。少弐氏に従う
龍造寺
少弐氏 …龍造寺家を傘下に置く北九州の大名
政資の代に大内氏に滅ぼされたものの再興を果たす
少弐
少弐
馬場
小田
大内氏 …山口を本拠に、中国、北九州に勢力を張る西国屈指の大名
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家和の亡くなった享禄元年(1528、=大永八年)は、龍造寺家以外にも大きな動きがあった。
少弐資元の嫡男である松法師丸の元服である。
夏に元服した当時十八歳の松法師丸を、資元は興経と名乗らせた。
さらに幕府管領の細川高国に頼んで将軍家と朝廷に訴えてもらい、大宰少弐に任官してもらった上、屋形号(功績のある武家に対する尊称)を賜った。
この時より少弐家は、当主興経と実権を持つ父資元との二頭体制へと移行したのである。
そして興経の後見として、馬場頼周と江上元種を任命。
江上氏は少弐氏が居城としていた、勢福寺城周辺の神崎、三根郡を中心に勢力を張る、少弐傘下の中心的国衆だった。
ところが評定において、興経の発した初めての所信表明が、いきなり波紋を呼んでしまう。
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「三十余年前、御祖父様が大内に追い詰められ、無念の自害を遂げたと聞く。諸将の中にも大内との戦のため、親兄弟を失い悔し涙を流した者も少なくないだろう。それがしはこの恨みを、大宰府を奪還する事で必ず
高らかに宣言した興経に「ははっ」と声を合わせて諸将が平伏する。
その様を、父である資元は頼もしく眺めていた。
少弐の将来は、この若者の双肩にかかっているのだ。先行きが見通せない時代にあって彼の溌溂さは、家の現状を変えてくれそうな期待を抱かせるものだった。
「興経よくぞ申した。大宰少弐の官位にあり、それを姓としていながら、大宰府を失ったままでは名折れというもの。いずれ大内と事を構え大業を果たさねばならん」
「いずれではござらぬ、父上。今でござる。大宰府を攻略するのは、今を置いて他にござりませぬ」
「何……」
「大殿(※資元のこと)、若君の仰せはまことに
「左様。逆に我らは英気充分。さらに大友という後ろ盾も控えており、今こそ好機にござる」
興経の言葉に動揺した資元に対し、下座にいた頼周、続いて(小田)資光が説得しようとする。
しかし資元は小さく唸ると、二人から目を逸らして渋い表情を浮かべるだけ。
その進言に応じて頷いたのは興経だった。
「うむ、両人の申す通りだ。肥前には当家に
「そうじゃ!」「仰せ御尤も!」「御意!」などと数人から同意の声が上がる。
しかしその様子を家兼は心中で嘲笑っていた。
興経の言い分は、かつて政資が佐嘉来訪時に宣言したものと、瓜二つだったのだ。
そして賛成しているのは頼周、資光、元種他数人の家臣、国衆達。
話の流れが滑らかなので、おそらく評定前に皆で打ち合わせていたのだろう。そう彼は推察した。
討伐推進派の熱い視線が資元に向けられる。
しかしなお彼は表情を崩そうとしない。かといって直ちに否定もしない。
奪還の気運が家中に高まっているのなら、これを機に挙兵するのも良いではないか、との思いがそこには透けて見えていた。
困った彼は顔を上げると、家兼に意見を求めてきた。
対して家兼の返答は一言だけ。しかし努めて明るく告げた。
「今は我慢にござる」
明るく告げたのは、興経へやんわり促すための配慮だった。
しかし重鎮の一言が軽んじられる訳がない。
その場はたちまち白けて静まり返ったため、水を差された興経の表情は不満気なものに変わった。
「かつて政資様にも申し上げましたが、大内は西国最強の家にござる。刃を交えるにはより慎重でなければなりませぬ」
「そうであろうか。そなたは生き証人。侵略された苦い思い出から、大内を過大に評価しておるのであろう」
「過大評価も何も、当時の大内と今の大内は別物にござる。当時の大内はまだ隙がござった」
「我らも滅亡から這い上がり、強大になっておる!」
「それでも残念ながら、筑前守護代の軍勢すら打ち破れますまい」
「何だと…… たわけたことを申すでないわ!」
激高した興経が唾を飛ばしながら、家兼を𠮟りつける。
対して家兼は平然と見返していた。何せ過去にも似たような事を体験しているのだ。しかも相手は政治の舞台に初めて加わった未熟者。海千山千の家兼の相手ではなかった。
侮られて憤慨した興経は、資元に向き直って頭を下げた。
「父上、あの者の申す事を信じてはなりませぬ! 我らの大願を果たすのは今にござる! どうかそれがしに出兵の許可を下さりませ!」
「ううむ、しかしな……」
「父上は御家の歴史にその名を刻みたくはござりませぬか? 達成したあかつきには、我らは中興の祖として後世まで語り継がれる事でござりましょう。何とぞ、何とぞ!」
広間に切迫した興経の声が響き渡った。
人前で息子が望んで頭まで下げているのだ。資元は親心から、ついに彼を見捨てる事が出来なくなった。
「分かった。出兵を許可いたそう」
その言葉を聞いて満面の笑みを浮かべお礼を述べる興経。そして推進派の諸将からどよめきが起こる。
一方、「大殿!」と家兼は叫ぶと、表情を一変させ資元を睨みつけた。
それを聴いた資元は目をつむんで怯むと、伏し目がちに告げた。
「御老公すまぬ。ここは若い者達に一度任せてみようではないか。この大胆さがもしかすると、良き戦果をもたらすやもしれぬ」
「大胆さが許されるのは戦術においてでござる。誰を敵に回し、どの地をどう攻めるか、戦略は常に慎重であらねばなりませぬ!」
家兼はその後も説得を続けた。
しかし少弐親子にはすでにその気が無かった。やがて場は出兵に賛同する声に包まれてしまい、家兼の進言は掻き消されるだけだった。
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すぐに少弐勢は挙兵に及んだ。
まず従える者達を増やすため、肥前最西端の松浦郡に向かい、玄界灘沿岸の在地領主達の集団、松浦党を攻めて屈服させる。
そして東へと向かい、西筑前まで勢力を拡大した後、ついに念願の地、大宰府へと入ったのだった。
政資の大宰府放棄から約三十年の歳月が過ぎていた。
一方、大内義興は少弐氏の挙兵を知って、将軍足利義晴へ討伐を申請したものの、許可が下りなかった。
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大宰府再奪還。
その一報を聞いた家兼は半笑いになっていた。
少弐勢の行動が、かつての政資の行動と全く同じだったためである。歴史は繰り返すと言うが、彼らは政資の不幸から何も学ぼうとしていなかった。
逆に不気味だったのが沈黙を続ける大内。
何かあったに違いないと、察した家兼は探りをいれてみたものの、その理由は掴めぬままだった。
そして年の瀬が迫る十二月下旬になって、ようやく大内が沈黙を続ける理由が水ケ江城にもたらされた。
それは幕府の討伐許可ついてではなかった。
「死んだ、だと……」
享禄元年十二月二十日、大内家当主である義興は、安芸の陣中で倒れ、山口に運ばれたものの帰らぬ人となった。享年五十二歳。
これにより大内家の軍事行動は一旦中止を余儀なくされ、つかの間の平和が、西国にもたらされることになったのだった。
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