062.宝珠。

 透明な結晶を前に、空は立ち尽くす。


 初めまして、かのう。我らが空よ。


 宙に浮かぶ硝子の球体から音が発せられる。複数の声が入り混じったようなそれは、鼓膜を通ることなく、直接、空の脳髄へと響く。


 我らが、空……。


 懐かしささえ感じる呼び名に、空は小さく繰り返す。


 そうじゃ。あなたは我らと共に世界に君臨するために生まれ、あなたは世界のために生きるべくして、今ここにいる。


 私が、世界に君臨する? 何を、言っているんだ。


 ご冗談を。あなたは気づいていたはずじゃろう。我らの存在と、我らの声に。


 それは事実だった。空はずっと、何者かの視線が常に己を観察し、自分に呼びかけていることに気づいていたのだ。そして、自分が何をすべきかも、本当は全て知っている。


 あなたは世界の統率者となる。あなたは世界がために生まれ、世界がために生きている。そうであろう? 空っぽな、我らが空よ。


 小さな世界の不適合者。そんな言葉が脳裏に浮かんだが、空はすぐに頭を振って、それを無理やり思考の外へと追いやった。


 私が空っぽだと? ばかにするな。私にだって中身はある。


 空の言に対し、結晶が薄く笑みを浮かべる。しかし、それは空の錯覚であったのかもしれない。実際には結晶は笑ってもいない上に、笑い声も響いてはいなかったから。


 まあ、それも良かろうて。そのような些末事はどうでもよい。のう、我らが空よ。我らを手にし、世界の頂点に立たれよ。あなたにはその資格がある。


 ……世界の頂点なら、他に候補がいたはずだが。


 空が生まれるずっと前から、世界の頂、民からすれば神に等しいその立場にのし上がるべく育てられてきた者たちがいる。その存在を空は知っていた。彼らを差し置いて自分が頂点に立つなど、あってはならない。

 せめて、彼らが気づくまでは。


 あれらは到底話になりえぬ。我らが空はあなた一人。生まれながらにして空なる、我らが御子。


 私は何もしていない。お前の期待に応えることもできない。


 色の目が自分に向いていることも知っている。自分がどんな存在か、それを忘れたわけではない。それでも空は誰かをむやみに傷付けることはしたくなかった。


 彼らを庇うとな。そうさの、あなたはいつでも他者のためにあろう。それこそが、我らが空たる証。


 違うよ。私は身勝手で自分勝手なんだ。傷付ける覚悟も持てやしない。


 ふむ、あなたが拒むというならば、我らにも考えがあるがの。


 透明な結晶に複数の人の姿が映り込む。皆、空よりずっと年嵩の子供らだ。彼らが何であるか、空は瞬時に悟る。


 やめろ。


 さてさて、すべてはあなた次第じゃがの。我らが空となるはあなたしかおらなんだ。他が失すれば、あなたもわかりましょうぞ。


 待て! 彼らは関係ないだろう。


 憤った様子で食ってかかる空の手を避け、結晶の向こうから虚ろな笑い声が微かに響いた。くつりくつりと、結晶が笑う。


 あなたが我らの空となりませば、彼らの命は助かろうて。


 今すぐ彼らから離れろ!


 我らは何もせぬ。あなたの返答次第では、じゃがのう。


 ぐっと爪が皮膚に食い込むほど拳を握り締めて、空は結晶を見た。射るような眼差しで真っ直ぐに見据えられた結晶は、それでもなお、微笑んだままでいる。


 お前の目的は何なんだ? 私を空に据えて、何になる?


 我らの願いは、我らが空が我らが空としてあることのみ。それ以外には、我らは何も望まなんだ。


 ふいに、結晶から響いてくる声が、寂しさを含んだように空に耳には聞こえた。空は静かに結晶へと手を伸ばす。無機質な温度が空の手の平に伝わる。


 お前は、寂しいのか。


 はて、何を言うておるのじゃ、我らが空よ。


 くるりと結晶が回転する。声の調子から察するに、本当にわからない様子だった。空は両の手で結晶を包み込み、己の胸元に抱き寄せる。


 私はとても勝手な人間なんだ。だから、お前の望みには応えられない。でもな。


 抱え込んだ虚無を、空は優しく撫ぜてやる。空の腕の中で、結晶が戸惑いの気配を見せる。


 お前の側にいることくらいはできるぞ。


 そ、ら…………――いや、いや、ならぬ! それではだめじゃ! 我らが空は、世界の頂点たるべきなのじゃっ!


 そうでなければだめなのだと、赤子がむずかるように結晶は空の腕から逃れる。


 ようやっと、全て揃うた! あやつも我らの側におるっ! だのに、あなたが空でなければ、この世界など何の意味も持たぬっ!


 それは、訊いている方が泣きそうになるくらい、悲痛な叫びだった。何がそうまで彼らを追い立てるのか。どうすることが、世界にとって正しいのか。


 ――小さな世界の不適合者。


 懐かしい、知らない記憶と呼び声が、空の脳裏で瞬く。金とも銀ともつかぬその色彩に触れるよう、空は静かに手を伸ばした。


 空……?


 空の指先でゆるりゆるりと細く紡がれていく光が、結晶を包みこむ。それが意味するところを、空は理解していた。もう、戻ることは決してできない。


 ああ、そうだな。


 いつか確かな終わりを迎えるために。理不尽で不合理な、小さな世界の終わりのために。


 わかったよ、虚。その日が来るまで、お前と共にこの世界の空であろう。


 小さな世界に、始まりが訪れた日のことだった。

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小さな世界の不適合者 空野 @Luciferian

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