無垢についての手記
向日葵椎
あるいはヒロイン
夜、ベッドで横になっていると、両脇の下を通して背後から手が伸びてきた。その手を私は知っている。付き合いの長い、けれどいまだに付き合い方のよくわからない相手の見慣れた手だった。それは座っていてもやってきて、いつも後ろから手をまわしてくる。そして今日も、その手は私の胸の前に手を置く。手のひらは胸の中に入ってきて、心臓を包みます。鼓動のたびに、胸の中が窮屈な感じを覚えます。けれどそれだけです。これ以上心臓がどうにかされたりしないことは知っています。
呼び名がわからないのでヒロインと呼びましょう。その方がきっと絵になります。麗人でも良いでしょう。正面から姿を見たことがないので、その辺りは自由に想像することにしています。
ヒロインに悪気はないのでしょう。今はツンツンしていて後々デレるということもないでしょう。どちらかと言えば、ずっとデレているようにも思われます。ただ、付き合い方がわからないのは背後のヒロインも同じで、とりあえず私の一番大事そうなところに寄り添おうとしているのだと感じるのです。そういうこともあって、私は背後の存在に無垢を感じるのです。近い感じのあるものとしては、猫が舐めてくれるときのあの舌のザラつきでしょう。
やってくる時間の法則はわかりません。来ない日もあれば連日やってくることもあります。滞在時間もバラバラで、数秒から数時間まであります。
何かに気づかせようとしていると考えれば物語的ではありますが、付き合いが長くなるとそういうことも考えなくなります。忘れていることや忘れようとしていることはいつでもあるので、たどり着くところがありません。
胸が窮屈なのは実は恋だったからなのだ、と考えれば背後のヒロインが愛おしくも思えますし、気づかせようとしているのもうなずけるところはあります。ただその相手はあまりにも無垢なので、自覚があるのかはわかりません。無自覚であることが厄介なのは昔から聞く話ですが、付き合いが長いとそれも気になりません。そうして今も、気づけばただ一緒にいるだけです。
背後の存在から解放されれば自由に感じるのか。たしかにヒロイン不在のときは胸の窮屈さがないですが、それが来なくなったからといってより自由を感じることもないように思います。付き合いが長いせいか、背後にヒロインがいるのもいつも通りのことだからです。それでは寂しさを覚えるのか。それも違うようです。またいつかやってくるんだろうという心持に寂しさはないからです。
おそらく実体はありません。しかし感覚として、たしかにヒロインは存在しています。「そういうもの」と言えるほどの実感があります。それがどこからやってくるのかはわかりませんが、ヒロインがいるのは事実です。
そうこう考えているうちに、今日はもうヒロインが帰ってしまった。「もう」というのは「早かった」に過ぎず、寂しさから出たものではない。ヒロインはまたきっとやってくる。もしかするといつも背後にいるのかもしれない。気づくのが手をまわした時というだけで。
当たり前の存在について考えた夜更け、再び眠ることにした。
無垢についての手記 向日葵椎 @hima_see
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