部内戦編

35話 「緑葉高校試験戦争」 1~2日目


 五月十三日 放課後


「全然集中できなかった……。変なこと思い出しちまったし」


 教室横のトイレの個室で、僕は唸る。如月先輩の家で自分のことを話して以来、過去を思い返すことが多くなった。慣れないことをしたせいだろう。


 先輩とその家族は優しく、「いつでも来なさい」と言ってくれたが、中間テストを控えた状況で、することではなかった。反省。慣れない時に、どうしても後先考えることができなくなってしまう。僕の悪い癖だ。


「しっかし、こっからどうすっかな」


 一日目の出来は、まぁ悪くなかった。現代文、社会などの文系科目が多かったからだ。酷すぎる点は、多分取っていないだろう。


 問題は明日の二日目。数学が不安で仕方ない。あと英語だ。高校に入ってから、難易度に拍車がかかった気がする。文法が多すぎるんだよ!


 実際本当にやばいので、さっさと帰ることにする。こういう時は気持ちを次の教科に切り替えることが大事だ。


 この前やっていたドラマの再放送で見た。一日目が終わっても自己採点はやらない。二日目に響くからだ。僕は少し新田とやってしまったけどな。


 聞けば聞くほどあいつの正解した顔がムカつくので途中で切り上げた。あのドヤ顔、一発ぐらい殴ってもバチは当たらねぇだろ。


 トイレから出て、教室に向かう。荷物は置いてきた。何となく、トイレの床に置くのは好きじゃない。潔癖症というほどでもないけど、我慢できない。


 窓から差し込む光はもうオレンジ色が混じっていて、夕暮れ時を告げていた。僕はこの色が好きだった。非日常感が、自分を自分から隠してくれるから。


 教室からは声は聞こえない。図書館で勉強してる奴や、すぐに帰った奴、塾に行く奴と様々だ。通りがけ見た自習スペースも、だいぶ埋まっていた。


 僕の荷物しか無いだろうな。そう思って、閉まっていた扉を開ける。


「遅い。どこ行ってたのよ」


 扉の前で、放心状態になる僕。なぜか、雨宮が、僕を待っていたかのような言い方で出迎えたのだ。


「……? 何?」


 何の反応も無い僕を怪しんだのか、眉をひそめる雨宮。呆気にとられて、まともな思考ができない。


「いや……何でも、ないです」


「なんで敬語なのよ」


 なぜ僕がこんな状況に陥っているか説明しよう。如月先輩の家に行ってから、なぜか雨宮との連絡はほぼ電話になった。


 僕は高校に入るまで携帯電話を持つことを許されなかったので、電話で女子と話した経験はほとんど無い。


 そしてそれが、試験日までほぼ毎日だ。つまり、僕の頭は情報過多でショートしている。


 雨宮はどうやら、学校では仮面を被るみたいだ。強気な態度も、焦りや不安を誤魔化すためのもの。イヤ、本人には聞いていないが、あまりにも電話での声が優しかったのだ。


 そうとしか説明できない。僕は彼女に嫌われているとばかり思ってたきたけど、意外とそうでも無いのかもな。あれか。少しは僕の力を認めてくれたのか。


「僕を待ってたのか?」


「そりゃそうでしょ。二日目の対策立てるんだから」


「へ?」


「は?」


 おかしい。まるで僕には興味が無いようだ。ボーイミーツガール的な、そういうアレだと思ったのだが……。


 ……雨宮さん。もしかして、僕を利用し尽くすために待ってましたか?


 瞬間、先ほどまでの自分に酔ったとしか思えない浅はかな考えがなだれ込む。


 みるみるうちに羞恥心が精神を支配し、死にたくなるような気持ちに覆われる。


 間違いなく黒歴史だ。しばらくしてから思い出して、足をバタバタさせることになるだろう。


 幸いなのは、誰にもバレていない事だ。ならこのまま墓場まで持っていけば、僕の黒歴史は自分の中だけにある。


「……あ、もしかして」


 まずい。止めるんだ。雨宮が意地の悪い笑みを浮かべ、僕の方を向く。


「何? あたしが待ってると思ってたの?」


「楠千尋! 体調不良により帰宅します!」


「stay!」


 有り得ない速度で先回りされ、出入口の柱に足を置く雨宮。ガラが悪すぎる。僕を帰させない気が満々だ。


「何? 楠。勘違いしちゃったの?」


 雨宮が核心を突いてくる。心が折れかけるが、一握りのプライドが奮起し、言い返すことに成功した。


「いや違う。夕方まで待っている理由が思いつかなかっただけだ」


「どこかで勉強してると思わなかったの?」


 泣きっ面に蜂。弱った心に直接攻撃ダイレクトアタック。どう考えても雨宮の言うことが正論だ。テスト当日に勉強していない方が少ない。


「痛い勘違いして、すみませんでした……」


 自分からサレンダーする。バカにされ、弄り倒されるだろうが、これ以上続けるのは恥の上塗りだ。


 続けると言っても、カウンター一撃で沈んだだけだが。


「……ったく、このバカは」


「あれ? 弄り倒さないのか?」


「は?」


 何を言ってる。と言わんばかりの雨宮の顔。え? イキリにはそれが罰だろ? 足利先輩は容赦ねぇぞ。


「そんな事して何になるのよ……」


 顔に出てたのか、雨宮がさらにため息を吐きながら頭に手を当てた。これはこれでバカにされてる気がする。


「やって欲しいならするけど?」


「いえ、結構です」


 雨宮はさらにため息を吐く。軽いものだった。


「じゃ。数学、教えて」


「……勉強してたんじゃねぇのか?」


「そうだけど、分からないところがあるから」


 なるほどな。そういう事か。てっきり誤爆したのかと思ったじゃねぇか。


「じゃあ僕も、英語を頼んでいいか?」


「ええ!」


 雨宮は笑顔になった。……こいつはもしかして、頼られるのが好きなのか? 先と違って、非常に嬉しそうだ。こっちが驚くぐらい。


 僕らはその後、普通に勉強し始めた。誰もいない夕暮れの教室に、二人。見る人が見れば誤解されそうだ。


 ……そんないい雰囲気には、なるわけもなく。


「だから! ここを基に場合分けすんだよ!」


「どの場合よ!」


 英語は雨宮のスパルタ教育が上手くハマったが、数学でこのザマだ。如月先輩のように上手くいかない。やはり僕が本質を理解していないからだろう。


 何度も二次関数の場合分けの条件について説明しているが、さっぱり理解できていなさそうだ。これは完全に僕が悪い。教えられないということは、僕の理解が甘いからだ。


 根本的に教えるのに向いていないのだろう。黒板も使ったが、雨宮はイマイチ納得していない。


「あんた如月さんに教えてもらったんでしょ! その通りやりなさいよ!」


「……雨宮、どこがわからないんだ?」


「全部よ全部!」


「いや、そうじゃなくて。この問題のどこがわかんねぇの?」


 如月先輩のやり方に従うまでだ。僕もそうだったけど、どこがわからないのかわからない問題は数学と切っても切れない。


 なら、先輩がやってたように、まず問題を分割する。


 僕の珍しい真面目な顔に感化されたのだろう。雨宮はもう一度解説と問題を読み始めた。少しして、雨宮は顔を上げる。


「……平方完成した後から」


 ほぼ全部ね。OK。任せろ。


「その後は、xを含む()の中がゼロになるような値を代入する」


「えっと、問題は(x-a)²だから……x=a?」


「正解。それが軸になる」


 雨宮は少しづつ、自分で解き進めることができている。こいつは多分、自分で解きたいタイプだ。なら、それに合わせて、やるだけだ。


 僕はあの日の如月先輩のやり方を「コピー」する。コピー演技。こんなとこで役に立つとは思ってなかった。


「で、後はその軸がわかんねぇから場合分けすんの」


「あ! それが左と真ん中と右ってこと?」


「それ! 最小値だからな」


 わかってきた。前に描いておいた三つのグラフも、今になって活きてきた。


「だから、軸は定義域から見て、左の時は小さくて、右は大きい」


 ここまでくれば、雨宮も自分で解けるだろう。パズルのピースがピッタリ合うように解けると、嬉しいことこの上ない。


 数学が楽しいのは、きっとこういう理由だからだろうな。


「できたわ!」


 そういって雨宮の出した答えは、模範解答と完璧に一致。見事な正解であった。


 嬉しそうに喜ぶ雨宮。僕も教え方が上手くハマって気持ちがいい。教える楽しさはここにあったのだ。


 こうしていると、入部当初には敵対していたと思えない。出会いが激的だった分、慣れたらこんなものなのかもな。


 ふと笑顔の雨宮と目が合い、思わず聞いてしまった。


「雨宮、ずっと言うべきだった。……僕に、演技を教えてくれねぇか?」


 言ったあとで、いろいろと言い訳が思いつく。だが、初心者が経験者に頼ることは何も間違っていないはず。


 告白? んなものするわけねぇだろ。漫画の読み過ぎだ。僕らの間にそんなモノはねぇよ。


 雨宮はしばし目を見開いていたが、すぐに視線を戻して凛とした表情になる。


「楠。あたしも言わなきゃいけないことがある。……あんたの問題点と課題について」


「素行に関しては勘弁してくれよ」


「それはもう諦めてるから」


 我ながら酷い評価をされたもんだ。中学生のときは誰の印象にも残りにくい奴だったのにな。


 雨宮の言う問題点は何だ? 少し怖くて、軽口を叩いたが、彼女の顔は変わっていない。


「それは――」


 僕はその言葉を、よりによって雨宮から聞いたことに、衝撃を受けてしまった。


 その言葉の真意を、明日。テスト後の部活で聞くことに、身をもって実感することになる。

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