34話 「緑葉高校試験戦争」 0日目

 二千十九年 三月九日 緑葉高校


 今日はついに来た受験日だ。卒業式が済んだあとも、学校から遠く離れた塾で、僕は勉強に取り組んでいた。


 学校から離れた塾に行っていたのは、できるだけ中学校の奴らと顔を合わせたくなかったから。


 受験期に必死に打ち込んできたおかげで、最後の模試ではいい判定も得ることができた。全体から見れば酷いもんだが、緑葉高校へ行くなら、大健闘と言っても過言では無い。


 まぁ、受からなかったら何の意味も無いが。


 試験開始数十分前。僕はトイレへと歩いていた。教室近くに併設されたものは、すぐ人で一杯になってしまい、どうも落ち着かない。トイレで精神統一してから試験に臨む。模試の頃から決めていたルーティンだ。


 心と身体の緊張を解く(物理的)ためにも、ぜひ落ち着ける各別な場所を探さなければならない。離れの職員用トイレとか良さそうだ。誰も使わなさそうだし。


 他の受験生から見れば、僕の様子は余裕にしか見えないのだろう。通り過ぎるとき、睨まれることが何度かあった。別に余裕でもなんでもない。実力を出すためにやってるだけだ。


 少し歩き、離れた校舎のトイレの前に着いた。確か旧校舎と書かれていて、今も人気が全く無い。むしろ好都合だ。そういう場所の方が、心は落ち着く。


 手近な場所にあったトイレの扉を開ける。黒板を爪で引っ掻いたような耳に不快な音が、誰もいないはずの旧校舎に響いた。


 中に入ると、誰もいない。僕はそう思っていた。思いたかった。


 清掃の用務員のような人が、一人黙々と掃除をしていたのだ。今、こんな感じで平成を装っているが、恐ろしくて堪らない。


 僕が入ったときに、それなりの音が立ったはずだが、用務員は気づくことなくブラシをかけていた。


 怖い怖い怖い怖い! 実際の人間の分、幽霊の方がまだマシじゃねぇか! 本当に恐ろしいのは人であることを、僕は再認識する。


 とりあえず深呼吸だ。手洗い場で、心を落ち着けるしかない。本音を言えば便座に座って精神統一したかったが、清掃中なのか、邪魔することはできない。


 吸う、吐く。


 ガシュガシュガシュガシュ!!


 ……吸う、吐く。


 ガシュガシュガシュガシュ!!


 …………吸う。


 ガッシュガッシュ!


「あぁもう!! 全然集中できねぇ!!」


 あまりにも煩いブラシの音が邪魔してきて、集中するどころではない。つかこの人、さっきからわざとやってるだろ。吸うタイミングと完璧に合ってたぞ。


 こんな事では集中もクソもない。場所を変えるのが懸命だ。正直用務員に何か言いたかったが、清掃中に入ってきたのはこっちだ。何も言う権利は無い。


 まぁ、看板くらい立ててくれよとは思う。だけど、こういう時に実は校長とか先生が用務員に扮していて、態度とか素行面で合否を分けるかもしれないからな。


 そんなお約束で不合格にされたくはない。


 ……まぁ一応、入ってきたことを謝っておくか。


「清掃中邪魔して、すみませんでした」


 トイレの扉の前で一礼する。そのまま踵を返して扉を開けようとしたまさにその時!


「なんだァ、小僧。居たのか」


 用務員が振り返ってこちらを見ているではないか! しかもとんでもなく声にドスが効いている。怖すぎて縮み上がりそうだ。


「あ、あの! はい! 申し訳ありませんでした!」


 纏うオーラ。雰囲気から、この人は只者では無いことを感じ取った。ここに居ては、狩られる! すぐさま扉から出ようとしたが、事務員が僕の肩をガッと掴む。


 なになに止めて怖い! ごめんなさいごめんなさい!


「待てよ」


「もう止まってますよ!」


 アンタのおかげでな! ……あっ、今こっち睨んだ。調子に乗ってましたすみません。


「……お前さんは、どうしてここを受けるんだ?」


「……へ?」


 あまりにも普通な質問に、僕は呆気に取られていた。普通はどこのシマの者とか、組とか聞かれそうだったからだ。


「理由ねぇのか? なんかあるだろ、やりてぇこととか」


「……いや、特に無いです」


 僕にはそんなものはない。何も無くて、でもとりあえず高校には行きたくて、普通科高校を目指しただけだ。強いて言うなら、最低レベルの学歴が欲しいから。だが、この用務員はこんな事じゃ納得しないだろう。


 だけど、嘘を吐くのは、もっと違う気がした。


「僕は、目標とか、やりたいこととか、何もありません。高校を卒業したいから来ました」


 間違いなく怒られるだろう。斜に構えた態度は、何より嫌いなはずだ。僕は覚悟して言った。混じり気のない、真実だ。


 だが、その反応は思ってもみないものだった。


「そうか、なら受かって、探さねぇとな」


「え?」


「今のうちから、やりてぇことなんかわかる奴がいるわけねぇだろ。お前さんは正しい。素直だな」


 人から褒められるのは、いつぶりだろうか。心の壁を、言葉の温かさが溶かしていくのを感じた。


「まだ合格できるとは限らないんですけど……」


「大丈夫だ。受かるやつは、受かった後のことを考えるもんだ」


 用務員はそこで切り、道具を片付け始めた。


「お前さん、トイレで集中するタイプだろ? ならここを使え。空けといてやる」


「いえ、そんな! 悪いですよ! ……あれ? なんでわかるんですか?」


「俺の周りにもいるからだ。緊張を一人になることで抑えようとする奴がな」


 お孫さんだろうか。もしかしたら同年代で、今日この日に別の学校で戦っているのかもしれない。


 顔も知らないお孫さん、頑張ってくれ。


「まぁ、入ってもやりてぇことなかったら、部活でも適当に入ってみろ。世界が変わるかもしれねぇぞ?」


 最後に白い歯が見えるほど笑って、用務員はトイレから出ていった。


 先とは打って変わった静寂がトイレに満たされる。望んでいたはずの空間がそこにあったが、なぜか落ち着かない。


 高揚しているからだ。そうでなければ、説明がつかない。


 しかし、今僕がやるべきことは、受験に挑むことだ。乗り越えて、合格を掴み取るためにも。


 スリッパを履き替え、奥の個室へと向かう。緊張はもう無かったが、心を落ち着かせないといけない。


 思えば、気分の高揚を抑えるためにここに入ることは初めてであった。それが受験当日なのだから、皮肉にも程がある。


 少し自嘲気味に笑い、しかし顔は笑顔で、僕は個室へと入った。


 気分よく受験できそうだ。一世一代の初めての大勝負にそんな事を思うのは、慢心だろうか。

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