32話 「如月家」②

「さて、とりあえず勉強からだね」


 ベッドから身を乗り出して、一年生用の参考書を手に取る如月先輩。そのままパラパラとページを捲り、二次関数の場合分けの箇所を開いて見せてきた。


「多分ここら辺かな。場合分けが面倒くさいから、つまづきやすいんだ」


 ベッドから立ち上がり、引き出しを開ける先輩。中にはプラスチックケースに入れられたノートが収まっていた。前面に書かれている「一年」の文字。ノートにはそれぞれ教科名と、どこからどこまで学んだのかの単元名が記載されていた。


 凄すぎて、言葉が出ない。紅葉高校で部活と勉強を両立させるには、ここまで努力しなければならなかったのか。改めて、如月先輩の力量に驚く。


「ん? どうかした?」


「いえ、先輩の凄さに驚いただけです」


 先輩はどういうことかわからないといった顔をしていたが、やがて勉強の事と合点がいったのか、笑いながらかぶりを振った。


「いやいや、こんなに勉強するのにも別に理由があってね」


「え、そうなんですか?」


 驚きだ。何か別の理由があるとは思わなかった。教師になるためなのか。そこはまだ、聞く段階ではない気がする。


「じゃあやっていこうか。ちなみに、苦手な範囲は合ってる?」


「はい。完璧です」


「良かった」


 笑顔を向ける先輩。今まで演劇関係の人間が殺伐としていた分、この差が心に沁みる。噛み締めなければ。


 ……やべ、本当に涙出てきた。


 急いで拭い去り、時分もノートを出す。二次関数の場合分けは、はっきり言って何もわからない。


 よく、「どこがわからないのかわからない」という教師を困らせる状態があるが、まさに今の僕がそれだ。授業を聞いていないわけではないものの、間違いなく着いていけていない。


 多分、日々の少しづつ積み重なったわからないが蓄積されているんだろう。覚えてないけど、演習でわからないまま先に行ってしまった事とかだろう。


 そのため、相当な時間が掛かると思ったのだが……。


 *


「そうそう。ここの軸が定義域のどこにあるかで分けるといいんだ」


「ありがとうございます」


 始まって一時間半、ほとんど基礎の問題は解けてしまい、演習も大詰めといったところまで来てしまった。


 この先輩、教師志望だけあって、教えるのがハチャメチャに上手い。僕の発言を噛み砕いて言語化し、そこから解法に近づきやすい具体例を出していく。


 わからないところが出てきても、僕が何か言う前に表情やペンを動かすスピードを見て察知して、自然に少し前のところを振り返っていた。この人は神か何かか? モチベーションを下げないための配慮まで行き届いている。


「さて、少し休憩だね」


「そういえばさっきも休憩してましたけど、何か時間とかあるんですか?」


「確か、一般的に人間が集中できる時間の限界が、四十五分ぐらいなんだ。だから、それに合わせて休憩してる」


 なるほど。ちゃんと時間も考えて勉強してるのか。机に齧り付いてやる訳じゃないんだな。


「まぁ個人差があると思うから、やってみて自分にあった時間をするといいよ。大事なのは、時間じゃなくて習慣化することだから」


 ……笑顔で言われても、僕にはできる気がしない。日々の課題ですら危ういのに、家で余分な勉強など一切していない。


「じゃあ、さっきの質問に答えようか」


「あ、はい。結局、なんだったんですか?」


 先輩は真剣な眼差しで、僕を見て告げた。


「僕は、早く家を出たいんだよ」


 ……? 話が見えないぞ。


「詳しく言おう」


「お願いします」


「僕の兄を見ただろ? あの人には、同棲している彼女が居るんだよ」


「絵里子さん……でしたっけ?」


 確か秋さんと先輩が話していたときに、帰ってくるか否か聞いていた気がする。


「そう。よく覚えてたね。その人と兄はこの家で同棲してる。つまり……」


 先輩はゴクリと喉を鳴らし、少し沈黙した。言うか言うまいか迷っているみたいだ。


「僕は完全に邪魔だろう?」


「いえ……そんなことは……」


「無いと言いきれないだろ? しかも二人とも僕に怖いくらい優しい。本当に優しいのか。早く受験を終わらせて家から出したいのかわからないんだ」


 先輩は留まることなく言葉を紡ぐ。……正直、今の今まで人間らしさがどこにもないぐらい完璧な人だと思っていたが、急に人間臭くなってきた。


 接し方を見る限り、兄弟への愛情に溢れている感じであったが、先輩はそれを知らないまま大きくなったから、優しい兄弟というものを根本的に知らないのだ。


「家を出るための資金を得ようと、バイトも探してたんだが、バレてしまった。多分、このままだと僕は出られないだろう」


 ……先輩はほぼ全ての面で優秀だが、兄弟間の関係性の面ではポンコツだったか。敬意には変わらないが、残念さは生まれてしまう。


 何かアドバイスを送りたかったが、僕に兄弟はいない。しかし、恩がある以上、このまま悩ませるわけにもいかなかった。


「まぁ、その。なんというか、お兄さんの行動をあまり深読みしない方がいいかなと」


「まったくその通りだ。千尋くん」


 横を見ると、そのお兄さんである如月秋さんが車椅子に乗って居た。手にはお盆を乗せており、お茶が四つある。


「兄さん……。いつからいたの?」


「割とずっとだ。雪尚が私の話をし始めた辺りからな」


「ぐわぁぁぁ!」


 頭を抱え、カーペットの上でのたうち回る先輩。途中でテーブルの脚に脛をぶつけ、しばらく蹲っていた。


「さて、千尋くん 」


「はい……。何でしょうか?」


 お兄さんの眼が、僕を真っ直ぐに見てくる。


「君はなぜ、演劇をやっているんだい?」


「え?」


 なぜそんな事を聞くのか。意味がわからない。


「ここに来た人には聞くようにしているんだ。部活への取り組み方で、その人の人となりがわかるからね。絵里子さんの受け売りだけど」


 この人は、質問で僕を見極めようとしているんだな。なら、しっかりと答えなければいけない。少し考え、口を開く。


「僕は……」


「はーい! ストップストップ!! まだ私がいないでしょ秋くん!」


 途端、よく通る大きな声が聞こえ、バタバタとした足音と共に、女性が入ってきた。多分、二人が言っていた絵里子さんで間違いないだろう。


「絵里子さん。これは失礼を」


 恭しく礼をするお兄さん。しかし、絵里子さんは納得していないようだ。


「お茶が四つあるから、本当は知ってたでしょ。……まぁいいけど」


 そう言って自己完結し、くるりと僕の方を向いた。ボブカットの髪が揺れる。


「初めまして! 私は白峰絵里子しらみねえりこ。秋くんの妻で、尚くんの義姉です」


「まだ完全にそうではないだろう」


「何言ってるの! 後は判を押すだけでしょう! こんなに過ごしてたらもう一種の結婚よ」


 そう言って、名刺を差し出してきた。そこには出版社が書かれていて、そこの編集をしているようだ。名前はあまり聞いたことが無かったが、小説などの本を出していた記憶がある。


 つまり、割とすごい会社だ。


 ……ここに、如月家の面々が集結したわけだが、僕はなぜここに居るんだろう。


「さて、絵里子さんは置いといて。千尋くん、理由を教えてくれるかい?」


 置いといてと言われた絵里子さんが頬を膨らませて秋さんを睨んだが、何処吹く風といった様子だ。


「えっと、自分を変えたくて……」


「ストップ。わたしが知りたいのはそんな事じゃあない。君が演劇を始めるに至った理由だ」


「え?」


 絶句した僕に、絵里子さんが続く。


「君を見てるとね、自信の無さを感じるの。多分、あまり成功体験が無いんだよね」


「それに、私たちが来てから居心地の悪さも感じているだろう? 間違いなく、初対面の人とのコミュニケーションが苦手な証拠だ」


 隠していたわけじゃなかったが、悟られたくない本心を言われ、何も言えなくなってしまった。僕は確かに過去に出来事がある。足利先輩にも、新田にも、椿にも言っていない。


 だけどそれは、もしかすると皆気づいていて、でも関係性があるから聞けないだけで、ずっと思っていたのかもしれない。虚勢で張って、臆病な心を隠し続けてきたことを。


 ……なら、初対面の人たちなら、話してしまってもいいんじゃないか。自分自身、何時までも過去に囚われる訳にはいかない。何の気兼ねもしなくていい分、幾分か話しやすいはずだ。


「楠くん。兄さん達がごめん。話したくないなら無理に話さなくてもいい。きっとそれは、トラウマだよね」


 先輩の気遣い。少し前までのたうち回っていたとは思えない優しさだ。だけど先輩、話さないと。僕は前に進めないんだ。何か変わるかもしれないし、悪くなるかもしれない。だけど、話さないままだと、もどかしい現状維持が続くだけだ。


 演劇をやっていく以上、常に変化しなければならない。何事にも取り組む如月先輩のように、経験を糧にしなければ。


「いえ、大丈夫です。いけます」


 僕は話す、自分の過去を。如月先輩も、秋さんも、絵里子さんも頷く。


 ――時は、僕が、楠千尋が幼稚園の時に溯るのだ。

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