19話 「Hello New World」
人は皆、何かしらトラウマを抱えている。一見普通を装いながら、心の中で、自らの地雷を避けてくれと願っている。
場の空気を守るため、そして何より自分のために。
初めは、興味本位だった。初舞台で、経験も無しに女装する男がどんな奴か、見てみたかった。奴と同じ学校の人間をダシにしてまで、楠千尋という人間を知りたかった。
案の定、奴は乗ってきた。それに対し、俺はトラウマを悟られぬよう釘を指した。そして、取り引きを持ちかけた。奴がそれを呑んだら、俺は勝ったことになるのだ。
数年、様々なものを我慢して打ち込んできた演劇を、才能だけで抜かされるのだけは我慢できない。
同年代なら、俺が一番上手い。
俺のプライドが、負けることを死ぬほど嫌がっているのだ。努力は才能に勝つ。それを俺が証明してやる。
つもりだったのに。
目の前にいるジャージの男。それに対し、動けず、何もできない惨めな自分。脳裏に浮かぶのは、思い出したくもない悪夢。自分が才能があると盲信していた頃の、忌々しい記憶。
『翔? なんで何も言わないの? 翔と私は付き合ってるじゃない』
何か言っている小杉。身体を揺さぶられるが、反応することができない。
小杉の言葉が、更にトラウマにリアリティを加算する。堰を切ったダムのように溢れ出し、俺という人間を呑み込む濁流。記憶の波に揉まれながら、見せつけられるトラウマに為す術なく立ち尽くす俺。呼吸が荒い。動悸が収まらない。
『先輩? 何か言ってくださいよ?』
『翔? どういうことなの? 説明して!』
女子二人に身体を揺さぶられながら、自分の足元が音を立てて崩れ去っていく。積み上げた物、努力してきたこと。それらを全て嘲笑うかのように、情け容赦なく破壊する。
俺の意識は、深い、深い暗闇の中へ。もがき続けた、あの頃へ。
*
「翔馬はさ、筋はいいんだよね」
ふと聞こえた懐かしい声。一緒に劇団をやっていた、座長の声だ。
公演の一日目、俺は昼の部でセリフを忘れ、劇の流れをほとんど台無しにしてしまった。
結果的には劇団員のおかげで閉幕したが、無茶な展開と辻褄合わせのため、スタッフにも音楽や照明で迷惑をかけた。
この発言は俺をフォローするつもりだったのものだ。他の人メンバーは、俺を責めるつもりだったらしいが、余りにも無惨な俺の姿を見て、責める気力を無くしたらしい。
そんな事を、終わった後に知った。今となっては、どうでもいいことだ。
その後からだっけ、二度と失敗しないように人一倍台本を読み込んで、セリフは初日で覚えて、演技のパターンも全て構築して演劇に挑んできた。ミスすることは無くなったが、逆に相手の演技に対応した表現が、できなくなってしまっていた。
周りからは、小さいのに熱心だ。情熱があると讃えられた。
どの面下げてそんな事を、抜かしているのか。
情熱なんて、あの時に、俺はとうに無くしているというのに。
ある時、どっかの子役が客演だと言ってやってきた。名前は確か、小杉侑。この女が出ている作品は全く見たことが無かったが、こんな零細の劇団に行かされる以上、大した役者では無いのだろう。
当時冷めていた俺はそう考えていた。そして、同年代ということで案内やら解説やらを押し付けられた俺は、無理やり小杉と関わることになる。
「ねぇ、翔はなんであたしを避けるの?」
付かず離れず、適当にあしらってきた結果、ついに呼び出されて言われた。悲しそうな顔を、俺は冷ややかに見つめていた記憶がある。
馴れ馴れしい女だな、とまず思った。他人のパーソナルスペースを理解していない、人類みな友達、と信じているようだった。だが俺はその頃は変な、流れも不確かなアドリブばかりやって困らせるこの女を嫌いになりかけていた。
「別に避けていないだろ」
「嘘。明らかに嫌がってるよ」
小杉の声には、確かな確信があった。芸能界で悪意に晒されている分、そういった事には鋭いのだろう。
俺は一つため息をつき、真実を告げることにした。関係性などどうでもいい。早くこの女から離れたかった。
「じゃあはっきり言うけど、俺はアドリブばかり繰り返すお前が理解できない」
「は?」
小杉の反応は言ってる意味がわからない。というものだった。
俺は懇切丁寧に、アドリブは信頼関係が無いと成り立たないこと、難度が高いため俺たちガキが挑戦するものではないこと(これには劇団が零細だったこともある)、そして何よりも俺がアドリブが嫌いなことを説明した。
「嫌よ」
「は?」
小杉の返答に、今度はこちらが意味がわからなくなる。
「あたしが我慢する必要ないでしょ。ならこれから先、ずっとここの客演になるわ。そして、翔と共演して、アドリブばっかりやる。今決めたわ」
怒りを通り越して呆れる感情が芽生えた。いつまで殿様気分なのか、だが、それを言ったところでどうにもならないし、言う義理も無かった。ただ、一つ。
「子役の仕事が無くなるかもな。ウチにこだわり続けたら」
「そんなの知ったことじゃないわ。あたしはあたしがやりたいことをやる」
どうやら覚悟は決まってるらしい。これ以上付き合いきれないと思った俺は好きにしろと告げ、その場を立ち去ろうとした。
「あたしね、とことん困らせたいタイプなの」
肩越しに聞こえた、明言を避けた物言いに足を一瞬停めたが、振り返るのは負けを認めた気分になるので、そのまま立ち去った。
確か中一の、冬ぐらいだったと思う。その後、小杉は言葉通り仕事が減ってでも客演として駆けつけ、半ば劇団員のような立ち位置となった。もともと持っていた愛嬌もあり、劇団ではそれなりに上手くいっていた。
それが二年ほど続き、俺は小杉が嫌いなまま外面だけを良くして大きくなった。俺が高校演劇のために私立の桜花に行くと、義理で伝えたとき、心底嬉しそうな顔をしている事に驚いた。嫌いだが、慣れてる分同じ部活でも悪くないな。そう思った自分を、後に後悔する事になる。
俺が活動を休止したときと同時期に小杉も休止した。とっくに子役の仕事は来なくなっていたが、本人は満足そうにしていた。
桜花に行って、小杉がいないことと、あいつが県内有数の進学校の紅葉に受かったことを知ったのはそれから間もなくしてからだった。
高校に入ってから、藤林さんに演技を見てもらった。結果は一言。「固い」 だった。
あの頃は、台本を完璧に覚えてくる自分を誇りに思っていた。
今なら意味が分かる。情熱も何も無ければ、演技をする機械と変わらない。
俺は、いつから演劇を楽しめなくなっていたのか。心から良いと思える舞台は、もう何年も経験できていなかった。
俺は後ろを振り返る。だいぶ遠回りしたが、ようやく前に進むことができそうだ。新しくも懐かしい、世界へと進む。スタート地点に戻ってくることができたのだ。
気分は新入部員。プライドは振り返ったときに捨てた。俺が今までやってきたことは無駄じゃない。だけど正解でもない。だから
初期衝動を、思い出せ。敵を見誤るな。俺は一番の経験不足。全てを貪欲に盗め。そして俺は初めて、経験者であると胸を張れる。
……楠千尋。俺はお前が気に食わない。俺みたいに血眼になってまで演劇に取り組んでないクセに済ました顔で舞台に立ちやがる。俺には無いものを持っている。それがどうしても許せねぇ。
だけどな、俺がこの、この思考に至る為には、お前の先制攻撃が必要不可欠だった。感謝してやる。そして、お返しだ。
完膚なきまでに、叩き潰してやるよ。
そして、小杉侑。俺の歪みはお前から始まった。その分も、ナシつけて返さねぇとな。
俺はまとわりつく暗い闇の意識を振り払うことなく喰らい尽くして、無理やり現実へと帰還する。
自分でも、驚くほど冷たい目をしている事が自覚できた。
目の前にいるのは、小杉と楠。一呼吸置き、目の前にいる楠にしか聞こえない声で囁く。
反撃開始、と。
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