番外編 ウパルパ

 午後の講義が急に休講になって、お昼前に校舎を出ると、雨が降り始めていた。この地域も梅雨入りしたと今朝、テレビのニュースで言っていたっけ。

 鞄から折り畳み傘を出して広げる。大学の前の坂を降りて行くと、黄緑色の小さなカエルが一匹、あわてふためいたように道端の草むらの中へ跳び帰って行った。


 高校卒業と同時に実家を出て、大学へ歩いて通える距離の場所にアパートを借りて、一人暮らしを始めた。

 大学は山の近くの田んぼばかりの土地の真ん中にぽつんとあって、駅の周りの住宅地にあるアパートから歩いて十五分ぐらい。駅はほんとにすぐ近くだけど、朝と夕方以外は駅員さんのいないほぼ無人駅な駅で、電車は一時間に二本ぐらいしか来ない。バスはもっと本数が少なくて、たいてい誰も乗っていない。駅前に一件だけあるコンビニは、なんと朝七時から夜十一時までと看板に書いてあった。咲子ちゃんにそうメールで送ったら、リアルセブンイレブンじゃん、と大爆笑の絵文字が返ってきて笑ってしまった。

 私は、今この場所をとても気に入っている。アパートは学生専用で、三階の私の部屋からは遠く遠くに海が見える。


 ふと思い立って、アパートの前を通り越して駅まで歩いた。最寄り駅から街へ出るのと反対方向に二駅ほど電車に乗ると海に着くんだと、この前教養科目の講義で隣の席になった子が教えてくれたのだった。

 雨の当たらないところのベンチに座って電車を待つ。反対側のホームに同じ学校と思しき人たちが何人か電車を待っていて、先に来た街へ行く電車に乗って行って、ホームには私一人だけになった。風はなくて、雨は空からまっすぐ落ちてきている。


 平日昼のローカル線はガラガラに空いていて、蒸し暑い外から入ってきたから余計に、冷房が強く効いているように感じる。ボックス席の窓側に座って外を見た。新緑と呼べる季節は少し過ぎたけれど、線路沿いの緑は雨を浴びながら生き生きとしている。

 電車を降りるとすぐ、ビーチパーク、と書かれた、色褪せた看板が目に留まった。本当にすごく色褪せてしまっているけど、描かれているのはたぶんペンギンと魚とアザラシかトド。水族館の看板のようだった。徒歩七分の文字につられて歩きだす。


 ビーチパークへは迷わずにたどり着くことができた。駅からもう観覧車が見えて、たぶんあれだろう、と思って歩いていたらその通りだった。小さな動物園と水族館と遊園地が一緒になったような、少しさびれたテーマパーク。入場料は、大人五百円、小学生以下無料。

 閑散とした園内を歩いて、ペンギンとシロクマ、アザラシの水槽を眺める。突然、空が光って雷が鳴った。にわかに雨が強くなって、近くにあった建物の軒下に入る。ふと見ると向こうの遊具のテントの下で、職員さんらしきお兄さんも雨やどりをしながら、空模様を伺っていた。

 傘を閉じて建物の中に入ると、そこが水族館だった。少し薄暗い室内。大水槽の前にしつらえられたベンチに座る。さっき私が角を曲がるのと入れ替わりに親子連れのお客さんが一組出て行って、こんなにたくさんの生きものがいるのに、分厚いガラスのこちら側はしんと静かだ。



 ケアホームのアルバイトは高校二年の終わりまで続けた。三年生に上がるとき、まだバイトを続けたい思いとせめぎあって、悩みに悩んで、受験のために勉強をすることに決めた。

 ホームは大変なこともあったけれど、ホームすずらんとホームひまわり、ホームと名のついた二つのその場所は、私にとってよく言うイメージ上の、本当の意味での、ホーム、のように居心地がよかった。遠くの大学ばかりを受験すると決めたとき、居心地のよかった場所を離れて、そうしてまた新しいところへ、たった一人で飛び込んで行くことへの不安で、春休みは何度も泣いた。

 私が受験に専念すると決めることができたのは、母の言葉のおかげだった。中学から、高校一年の途中ぐらいまでだろうか、母はずっと私に、レベルの高い大学に行きなさい、と言っていて、私はそれを聞くたびに苦しかった。苦しかったから、返事をせずに黙って、逃げていた。

 受験生になるそのときはもう、そう言われることはほとんどなかった。私には無理だとあきらめたのかもしれないし、私が高校一年の終わりに母は父と離婚して、そのあと二人で引っ越したり、同時に母は仕事で異動もあったと言っていたから、そういうことを言う余裕もないまま時が過ぎていたのかもしれない。私にとっても、言われるより言われないほうがずっと気持ちが楽なことだった。なのに、アルバイトから帰って夜のキッチンで、ふと、母に尋ねてみたのだった。


「お母さん、今でも、私のこと、いい大学に行きなさい、って思ってる」


 少しの沈黙があって、そうね、思ってるよ、と母は頷いた。


「どうして、か、きいてもいい」

「……」

「……」


 母の手にした、麦茶の入ったコップの氷がからんと鳴った。もうずっと指輪をしていない手に、水滴が伝っていた。


「私ね、短大卒で就職して、……学歴ないくせに、とかね、女のくせに、とか、いろいろ言われたんだよね、管理職になったときにも、腰掛けだと思ってたとか、上に色目使ったとかね、同じ女性の人たちにもいろいろ言われたなあ」

「……、うん」

「ね、もう今はね、そんな時代じゃないんだよね、わかってるけど、やっぱりね……現実、っていうか、社会、っていうか、まだまだ大学出たほうが有利だなって思うときのほうが多いよ」

「うん」

「なんかね、今は半分……どんな進路でも、ゆきが、したいようにすればいいなって思うのが半分、でもやっぱり、将来の選択肢とか、可能性、増やそうと思ったら、大学行ってほしいなって思うのが半分」


 翌日、ホームの代表の佐々木さんと、ホームすずらんでお世話になったもえみさんに、三月いっぱいで辞めるという届け出と挨拶をきちんとした。佐々木さんももえみさんもずいぶん残念がってくれたけれど、頑張ってね、応援してるね、と言ってくれた。そして、いつでも戻っておいでね、と。

 戻って来られたらどんなにうれしいことか、でも、きっともうここへは戻ってこない、そう思いながら私は、泣き笑いではい、と返事をした。


 そうして三年生の四月から一生懸命、私の人生の中では一番、一生懸命、初めて自分のためだけにひたすら勉強をして、家から数時間も離れたところにある公立の大学に一通だけ合格通知をもらうことができた。社会学部、福祉学科。

 たぶん決して名門とは言えない学校だけれど、合格通知を見せた私に母は一言、そう、おめでとう、とだけ静かに言った。



 大学に入学して、五月から、沿線のグループホームで私はまたバイトを始めた。すずらんやひまわりより利用者さんの数が多く、障がいの重い人も多く、職員さんの人数も多いぶん戸惑うこともあって、あらためて、前までいたところ、の居心地のよさを身にしみて思うこともある。

 でも、慣れるのが遅い私のことだからこれから少しずつ、自分が何をしていくべきか、見極めていくのだと思う。大学の講義もまだ慣れないところも多いけれど、少しずつ。聞き逃してしまったことは、思い切って同じクラスの子に聞いてみたり、それから雑談をしたり、そうすることも少しずつ、できるようになってきたような気がする。

 そう思えること、それは、もえみさんや樋口さんや佐々木さん、アイさんやケイさんやミキオさんやヒロシさん、高校を卒業して離れ離れに進学してそれぞれの道を進んでいる、咲子ちゃんや瑞穂ちゃんやさくらちゃん。そしてたしかに好きだった、好きだったひと、麻生さん、にも、そして、そして、母にも。みんなにもらったもの、みんなにもらい続けているものが、たとえば平均よりずっと遅咲きだとしても、きちんと私の心の中で育っていることなのだろうと思っている。



 青く深い水の、上の方がさあっと光ってはっとする。小さな小さな魚たちが群れて、回遊して行ったのだった。

 室内は少し肌寒い。鞄にしまっていたパーカーを取り出して羽織る。立ち上がって、去りかけてもう一度振り返って、大水槽の前を離れた。


 無意識のうちに探していた姿は、一番最後の部屋にあった。片隅の小さな水槽。でも、何かちょっと違う。ちょっと上がった口角も、丸い目も、まぎれもなくウーパールーパーなのに、なんだか全体的に小さい、というか、短い。水槽の横のパネルには、ウパルパ、の文字。ウーパールーパーの変種で、胴体が短い、という、見た目のままの説明書き。そうか、ウーパールーパーの短いやつだから、ウパルパなのか、そのまんまだ、と思ったらおかしくて、一人でちょっと笑った。

 ウパルパは少し不器用そうな動きで、それでも飄々とした顔をして、マイペースに、ふよふよと水中を漂っていた。


 水族館を抜けると、併設のレストランがあった。いつか行った、あの水族館みたい。一瞬だけ胃のあたりがきゅっとなって、そのあとふと空腹をおぼえた。でも、今日は家に帰って、昨日作ったカレーを食べるんだ。ごはんも、ちゃんと六時半に炊けるようにセットしてきたし。

 外に出ると雨はやんでいて、急に夏のような日差しが、足もとの水たまりを蒸発させるように照り返す。折り畳み傘を日傘の代わりにして、まだ濡れた地面をスニーカーの足で踏みながら、私はまた、駅までの道を歩いた。



〈了〉

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ウーパールーパーに関する考察 伴美砂都 @misatovan

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