ゴールデンの章
今年は特別に寒い冬だったみたいで、大雪のニュースが何度もテレビで流れた。私の住む町はあれから雪は降らず、それでも、北風は冷たい、いつもの冬だった。
そして冬から春に変わる日は、ある日突然くる。朝、外に出て息を吸ったとき、鼻の奥がつんと痛くならないことにはっとする日。周りを見回しても景色は昨日までと同じ色に見えて、たしかに空気が緩んでいる、春の一日目。
修了式が終わって、帰り道はすっきりと晴れていた。桜が咲くにはまだ少し早くても、川沿いの桜の木々は遠くから見るともうピンク色に見える。
自転車を漕いで家に帰って、台所でインスタントのラーメンを作る。最近は、たまにだけど、自分でお昼ごはんを作るようになった。インスタントの袋ラーメンとか、具がミックスベジタブルとウインナーだけのチャーハンとか、そんな簡単なものだけだけれど。
居間でテレビを見ながらラーメンを食べていると、玄関の開く音がした。居間の扉が開いて、母が入ってくる。おかえり、と言うと、うん、と答えてテーブルの上にコンビニの袋を置いた。中には、サンドイッチとプリン。母はあまりコンビニで食べ物を買わないのに、珍しい。見ていると、袋がこっちに動いた。
「いいよ、食べて」
「え、……ううん、うん、でも、じゃあ」
食べる、これ、と反射的にラーメンの器を差し出した瞬間後悔する。でも、意外にも母は、じゃあもらう、一口、と言って向かいに座った。
最近、母に怒られる回数が減ったような気がする。私が朝、落としたパンくずをちゃんと拭いてから学校へ行くとか、洗濯物を干すときベランダに落っことさないとか、そういうことが前より少しずつできるようになってきたから、かもしれないけど。今日のラーメンも、食べかけのもの人にすすめないで、と怒られるかもしれないと思ったのに。でも、今までそうしてみたこともないのに、私が勝手に、怒られると思ってしまうだけなのかもしれない。茶碗に取り分けたラーメンをすする母の方を見て、こうやって母と向かい合わせて近くに座っていても、あまり緊張しないようになっていることに気付いていた。
「……あの、食べても、いいの、プリン」
「うん、いいよ」
「……ありがとう」
「……サンドイッチも食べてもいいよ」
「うん、……でも、お母さんのお昼」
「ラーメンもらったからいいの」
「……じゃあ食べる」
サンドイッチもプリンも食べて、時計を見ると、バイトに行くまでにはまだ時間があった。母はいつも食べ終えた食器をすぐ洗いに行くのに、今日は食卓に座ったままでいる。半日で仕事から帰ってきたし、どこか調子が悪いのかも。
「あの、大丈夫」
「え?」
「あ、えっとね、お仕事、早かったから、体調悪くて帰ってきたのかなって」
「ああ……違うの、今日ほんとは休みなんだけどね、仕事片付かなかったから半日だけ」
「あ、そうなの……お母さん、あの、お疲れさま」
言うと母は無言のまま笑った。今日はお化粧は落ちていないけれど、たぶん、もしかしたら、少しだけ疲れたような顔をして。
「……」
「……」
「ゆき、あのね」
「うん」
「いい?今、話しても」
「え、……うん、いい」
「……お母さんね、離婚、しようかと思ってる」
「……、うん」
「ごめんね、ゆき」
「どうして」
「どうして、って……」
「……」
「……」
「あのね、お母さん」
「うん」
「わ、私ね、バイト行くね」
「……ああ、そうなの」
「うん、……あのね、帰ったら、話すから、……ちゃんと話すからね」
わかった、と言って母はテレビの方を向いた。私は立ち上がり、台所へ食器を運ぶ。本当はまだ時間は少し早い。どう答えたらいいかわからなくて、席を立ってしまった。
母と父はもう長いこと別居している。離婚する、とか、しない、とか、あまり考えたこともなかったけど、もし離婚するかどうか決めるとしたら、きっと私の知らないうちに両親が決めるのだろう、と思っていた。
母には怒られてばかりだけれど、もし離婚したら父のところへ行く可能性、だとか、そういうことも考えたことがなかった。もし、母が私に、父のところへ行けと言わなければだけれど。わからない、わからないということは、そうして今、こんなに気持ちが、何の気持ちかわからない気持ちであふれそうになってしまうということは、きっと今までずっと考えないようにしていたんだろう、と、とめどなく考えながら駅までの道を、自転車を引いてゆっくりと歩いた。
外は暖かい。さっきより、少し曇っている。もしかしたら明日は雨になるのかもしれない、と思うような匂いが少しした。泣きそうになっているけど、今からホームのみんなに会うから、がんばって行かなきゃ。行かなきゃ、と思っても、今日はおなかが痛くなったりはしなかった。ただ突然ざっと吹いた生暖かい風に、ひとつくしゃみが出た。
ホームに着くと甘酸っぱいいちごの匂いがした。部屋に入るなり、あ、ゆきちゃんいちごつぶして、ともえみさんに声を掛けられる。
「今日のおやつ、いちごミルクだからね」
ボールの中に、よく熟れたいちごがたくさん入っていた。フォークで粗くつぶして牛乳を注ぐ。
「もえみさん、めっちゃ美味しそうです」
「でしょ?スーパーで見切りだったの、半額!」
「あの、飲むヨーグルトとか入れたらもっとおいしそうかもです」
「あ、飲むのはないけど、普通のヨーグルトならあるよ、朝の残りだけど」
パックに少し残っていたヨーグルトを入れて、お砂糖を少し。かき混ぜて、いつもおやつの時に使うカップに入れる。食事はホームに備え付けの揃いの食器を使うけれど、マグカップは利用者さんそれぞれのマイカップを持っている。ミキオさんのカップは、新幹線のマークがついた青いカップ。ヒロシさんのは、緑と白のストライプに、恐竜の柄。アイさんのは赤と黄色の水玉柄で、ケイさんのはうすい茶色にテディベアの柄が入った大きめのカップ。もう、いつも迷わずにそれぞれの食卓の定位置にカップを準備できるようになった。
小さなお皿にクッキーを二枚ずつ添える。クッキーの入った缶のフタを閉めようとすると、私たちもおやつにしようよ、と言ってもえみさんが向かいの席に座った。今日の夕飯は、もえみさん得意の、鶏肉のトマト煮込み。台所にはいい匂いが漂っている。台所のテーブルでクッキーを三つずつ食べた。最近太っちゃったからもうやめとこっと、と缶のフタを閉めたもえみさんが、ふと言った。
「これ二枚だと少ない気もするけどねー」
「?」
「私たちはさ、何枚食べようとか、食べたいけど我慢しようとか、自分で決めれるけど、ここのみんなは、なかなか自分で決めるのはね、難しいから」
「あ、……そう、ですね」
「うん、……親とかだと、障害あってかわいそうだからって好きなもの、好きなだけ食べさせちゃうような人もいるけど、食べたがるのに食べさせないって罪悪感あるしね、でもそれですごい太っちゃったりとか、もういい年で糖尿持ってる人もいるしね、そこは責任もって管理しないとダメなんだよね」
たしかに、ホームのおやつは大人の一回分のおやつにしては少ないような気がする。カフェオレも、砂糖なしだ。アイさんとミキオさんはちょっと太り気味だから、もえみさんは気を付けているんだろう。おやつはいつももえみさんか私が準備して、余ったものは戸棚の上の方にすぐ仕舞ってしまう。
もえみさんが私にこんな話をしたのは初めてだった。ふだん一緒に仕事をさせてもらって、もえみさんが本当にこの仕事やホームの利用者さんたちのことを大事にしているんだとよく思う。そんな大切なこの仕事のことについて、考えたことを私に話してもいいと、思ってもらえたんだな、と思うと、じわじわと嬉しかった。
バイトが終わって、地下鉄から地上線へ乗り換える駅の通路で、ふと立ち止まった。母に、ちゃんと話をする、と言って出てきたのだった。もしかしたら、家に帰ったら母はもう寝ていたり、そうでなくても私がそう言ったことなんて忘れていたり信用していなかったり、するのかもしれない。でも、そうだったとしても、もし母が覚えてくれていたときのために、少しだけ気持ちの準備を整えてから帰ろうと思った。
自販機でカップのココアを買ってベンチに座る。駅の中とはいえ夜はまだ冷える。紙のカップを包んだ手のひらだけ、じんわりと熱い。夜の駅に一人でいるのは怖い気もしたけど、思った以上に人通りも多いし、みんなどこか疲れた顔をしてまっすぐ歩いていて、誰も私の方を見る人はいない。
流れていく人たちを見る。ふと、気が付く。このベンチは、夏になるまえに、麻生さんと二人で座ったベンチだ。麻生さんに助けてもらって、泣きながら、座ったベンチ。今は泣かずにひとりで座って、そして、あのころから少ししか時は経っていないような気がするのに、私はたぶん、ずいぶん上手に、人ごみの中も歩けるようになった。歩くのというよりは、誰かにぶつかったらごめんなさいと頭を下げて通り過ぎるとか、おなかが痛くなってきたらお手洗いに向かってみるとか、何か心配になったり苦しくなりそうになったらがんばって別のことを考えるとか、そういうことが。それは、上手になった、というのとは、ちょっと違う気もするけど。
鞄の中が震えた気がして、携帯電話を取り出すと、咲子ちゃんからメールが来ていた。このまえ話してた漫画の最新刊、買ったよ、と、時々交わす何でもない内容のメール。私には、大切なメール。少し迷って、電話をかけた。
「もしもし、あれ、メール見てかけた?」
「うん、……あのね、ちょっと、話してもいい、かな」
「うん、どしたの」
「あのね、……うちのお母さんと、お父さん、離婚するんだって」
「え、……え、そうなの」
「……うん、あのね、これから、お母さんと話すの」
「……そっか」
「……」
「……ゆきちゃん」
「うん」
「あのね、応援してるね」
「……うん、……咲子ちゃん、ありがとう」
「うん、ゆきちゃん、電話くれて、ありがとうね」
もう一度、ありがとうと言って電話を切った。カップに残ったココアを飲み干すと粉っぽい甘さが喉をふさいだ。ココアはすっかり冷え切ってしまっていたけれど、それと戦うようにしてお腹のあたりがじんわりと温かくなる感覚。指先ももう冷たくない。ただ立ち上がるとコートの裾が触れた脚が、冷えて、少し痺れていた。
家に着くとリビングの電気はまだ点いていた。駅から急いで自転車を漕いできたから、鼓動が速い。ただいま、と息を切らしながら言うと、おかえり、と言って母は少し笑った。
母がまだそこに居てくれたことに、母と話すことを怖いと思っていないことに、どこかほっとしたような気持ちで、向かいに座った。
「よく言うけど、やっぱりね、ゆきが成人するまで、このままで、って思ってたんだけど」
「うん」
「ゆき、嫌でしょう……苗字も、変わるし」
「わかんない……けど、苗字は、変わるのは、別に嫌じゃない」
「そうなの」
「うん……友達は、名前で呼ぶし」
「そういう問題じゃないと思うけど……」
「うん、いいの」
「そう、……そうか」
沈黙が降りた。ふと俯いて見た胸もとに、ぽちりと赤い点があった。トマト煮込みのソース。うっかり飛ばしてしまったんだ、と思ったら、ふっとホームに立ちこめていたトマトの匂いが鼻先を掠めて、瞼の端が熱くなった。唇を噛んで、前を向く。じゃあ、と母が呟くように言った。
「……ママに報告、してこなきゃ」
「おばあちゃん」
「うん、そう」
「いつ、行くの」
「週末かな」
「お母さん」
「うん?」
「私も行っていい、一緒に」
「……別に、来なくてもいいよ」
「ううん、あのね、行きたいの、一緒に」
「……」
「お母さんが、嫌じゃなかったら」
わかった、と母は言って立ち上がった。目の下にうっすらと隈ができている。それが前からだったかどうか、わからなくて、私はずっと、母の顔をちゃんと見ていなかった。流しの中に、お昼のと、夕飯のと思しき食器がまだ残っている。
「お母さん、あのね、お皿洗っておくからね、もう、早く寝てね」
「ゆき、いいよ」
「ううん、いいの、する」
母が部屋へ行ってから、お皿を洗った。洗いながら、気付いたら涙がたくさん出てきていた。私は前より、まだいろいろなことが怖いながらもずっと、しっかりと頑張れているはずなのに、友達、もう友達と言ってもいい人がいて、支えてもらって、母の顔をしっかり見て話をすることもできて、学校も、アルバイトも、きちんと行けているのに、何か大きなもの、寄りかかっていた大きなものを失くしかけているような気持ちだった。
涙も鼻水もぐしゃぐしゃになって泣きながら水を流して、台拭きで流しの周りをできるだけぴかぴかに拭いて、ぐしゃぐしゃの顔のままお風呂に入った。服のトマトソースをできるだけ洗い落としてから洗濯機に入れて、髪の毛を丁寧に乾かして、それから、もう一度台所へ行って、ティーバッグで紅茶を淹れた。
音を立てないように階段を上がると、廊下の窓の外から遠く風の音と犬の吠え声がした。部屋で熱い紅茶を飲みながらもう少しだけ泣いて、それから眠った。
祖母の家には、次の週末に一泊二日で行くことになった。土曜の朝、金曜の夜までびゅうびゅうと風が吹いていたのもやみ、空は晴れて、暖かい日になった。特急に乗って、母の郷里へ向かう。ものごころついてからは初めてのことだった。
電車は母が指定席を取ってくれて、窓際の席に座った私はずっと外を見ていた。ビルの建ち並ぶ街並みを抜けると景色はずっと平坦になり、民家、田んぼ、川、ずっと向こうに見える山、時々ある大きな看板や、別の路線の電車、踏切の上がるのを待つ車たち、いろんないろんなものたちが車窓を流れて、そして去っていく。その一つひとつがとてもきれいで、そして、とても好きだと思った。どこにでもあるものや、誰も気に留めないようなものだったとしても。そうやって、何でもないものの一つずつに心を揺さぶられてしまうことが、たぶん、きっと、決して、ただ臆病で邪魔なだけのものではない、ということも。
特急の終点で降りて、改札を出る。自動改札じゃなくて駅員さんが手で切符を受け取ってくれる改札だったことに、おお、と驚く私に母は苦笑していた。母は、ここで育ったのだ。
祖母の家は駅のすぐそばだった。祖母は、綺麗な人だった。母に聞いていた年齢より、ずっと若く見えた。挨拶だけをして、母と祖母が話をする間、出ていなさいと言われたわけではないけれど、私は外へ出た。
さっき歩いてきた駅からの道を、反対に辿ってみる。両側に街路樹のある、広くがらんとした道路。街路樹には夜にはイルミネーションになるのだろう、今は電気の点いていない電飾が巻かれている。樹の肌に無数に貼り付いた細かな球の連なりに、首筋が一瞬ちりりとした。
駅ビルのフロアもどこかがらんとして、閑散としていた。一階にスターバックスがあって、いくつかのお店が入っている。エスカレーターでぐるぐると上に上がって行くと、6階、ミニ水族館、という看板が目にとまった。
市内の水族館から出張してきているというミニ水族館は、入場無料だった。春休みの親子連れに混ざって入り口を通る。小さな魚や、カニ、クラゲなどの水槽が点々と置かれている中に、見覚えのある形を見つけた。添えられた説明書きにはウーパールーパー(ゴールデン)、の文字。作りものめいた金色、というか黄色に輝く身体で水中に浮かぶその姿を、子どもたちが興味深そうに眺めては通り過ぎて行く。
ふにふにした柔らかそうな、少し皺の寄った頼りない皮膚に、腕力のなさそうな手足、何を考えているかわからない、つぶらな目玉。どこか少年ぽい、口角がちょっと上がったように見える口もと。子供のようにも、老人のようにもみえる、不思議な生物。
市立図書館にいたリューシスティックも、麻生さんと見たアルビノも、テレビに映っていたブラックも、県立図書館のマーブルも、みんな元気にしているかな。しばらくそうしていて、ママ見て、きいろ、へんないきもの、と楽しげな声にはっとする。小走りに近づいてきた男の子たちに場所を譲って、フロアを出た。
駅の近くのビジネスホテルに母と二人で一泊して、翌朝、帰りの電車に乗った。母と祖母との間で、どんなふうに話をしたのかは、知らないまま。
この路線の車内販売は三月いっぱいで終了します、ご了承ください、とアナウンスが流れて、隣の席の母が、そうなんだ、と呟く。これまでも実家に帰る用事はあっただろうし、母はきっと何度もこの電車に乗っているのだ。そう考えるのが自然なのに、帰り道の今まで、母も初めてのように思っていた。
車内販売高いけど、たまにだし、最後だしいいよね、と言って、母はワゴンを運んできた係員さんを呼びとめてサンドイッチとオレンジジュースを買ってくれた。卵焼きとハムの入ったサンドイッチを食べて、いつの間にか眠ってしまい、気付くと窓から見える景色は見覚えのあるものに変わっていた。
「ゆき、もう着くよ」
「あ、……うん、わかった」
「ゆき」
「うん」
「ありがとうね、一緒に来てくれて」
「え、でも」
「心強かったよ」
「え、……うん、……うん」
電車が駅に入る。立ち上がりながら、一度目を閉じて、目を開けて、ホームの看板へゆっくりと視線を合わせた。ゆっくりと、そうすればきちんと見たいものを、はっきりと見ることができる。
「買い物でもしていく?」
「……ううん、私、図書館行く」
そう、わかったよ、と言って母は先に改札を通って行く。麻生さんはもう、いないけど、本を借りて、ウーパールーパーはもういないけど、待合室で座って本を読んで、しばらくそうしてから家に帰ろう。
春の風が、今日は帽子をかぶっていない私の前髪を吹き抜けて飛ばした。私は背中を伸ばして、まっすぐ、改札へ向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます