マーブルの章(後編)

 夕方遅くなるにつれて雨は霙まじりになり、空が暗くなるのに比例するかのごとく、その中の氷の分量を増していくようだった。

 頭からつま先までずぶ濡れになって歩き回った私は、結局、家に帰った。どこにも行くあてがなく、ひとつとして、行く場所が思いつかないまま。何も言わず飛び出した家に帰るのが気まずいとか、悔しいとか、そういう気持ちより、もう、どうでもいいや、と思うほどには、寒かった。

 玄関の鍵はもしかしたら閉まっているかもしれないと思ったけれど、開いたままだった。そういえば、昔から母にどんなに怒られても、家を追い出されたことはないな、と思った。だから何なのかは、わからない。

 居間の前の廊下を通るとき、食卓に座っていた母が顔を上げて、目が合った。母は、何も言わなかった。


 電気を点けないままの部屋でびしゃびしゃの服を全部脱いで着替えた。タオルで髪を拭く腕がうまく上がらないほど冷え切っていて、唇がわなわなと震えた。

 なんとかパジャマに着替えて、毛布にくるまって、窓の外がしんとしているのに気付く。寒いのに、ベッドの横の窓を少しだけ開けた。雨音は消え、暗い空から静かに雪が降り落ちてきている。こんなに短い期間に二度も雪が降るなんて、この冬は特別寒いのかもしれない。

 しばらく、外を眺めた。涙はもう止まっていた。窓を閉めて、カーテンを閉めて、私は、強くならなければならない、ただ漠然とそう思って、強く強く祈るように思って、目を閉じた。



 二日間、学校を休んだ。寒い中を歩いて風邪を引いてしまった、わけではない。あんなに濡れて冷えたのに、熱も出ず、喉も鼻もなんともなかった。ただ、眠たくて、身体が重くて、起き上がることができなかった。

 学校へは、体調が悪いと自分で電話をした。母は私が学校へ行くより早く仕事へ行き、夜に顔を合わせたときも何も言わなかったから、私が学校を休んだのを知らなかったのか、知っていても、もうあきらめてしまったのかもしれない。


 休み明けはマスクをして学校へ行った。まだ頭がぼんやりと重たく、顔を半分隠して俯いて歩いていると、ほんとうに体調が悪いような気持ちになってくるから不思議だった。嘘をついて休んだことをみんな知っているんじゃないかと思うと、胸が苦しくなる。

 教室に着く前に、一番に声を掛けてくれたのは森口先生だった。まだ調子悪いのか、と言った先生に、私はだまって頷いた。先生は、そうか、無理するなよ、と言っていつものようにギョロ目をぱちぱちさせた。嘘がばれていたのかどうかは、わからなかった。

 ホームルームの始まるぎりぎりの時間に教室に入ると、瑞穂ちゃんとさくらちゃんが声を掛けてくれた。咲子ちゃんから二者面談の日の話を聞いていたら、もしかしたら気まずくて話をしてくれないかもしれないと思っていたけど、そんなことはない、のかもしれない。顔を見る限り二人ともいつも通りで、何も変わったことはなかったかのように見えた。

 まだ顔色悪いみたいだけど、大丈夫、と心配してくれて、私がうまく返事をすることができなかったのも、風邪で喉をいためているのだと思いやってくれたみたいで、嫌な顔ひとつせずにいてくれた。


「あのね、咲子ちゃんも風邪で休んでるの、ゆきちゃんと同じ日からずっと」


 瑞穂ちゃんがそう言ったのを聞いて、ハッとした。今まで眠っていたのが、いきなり目が覚めたみたいだった。こんな、こんなふうにしている場合じゃない、と、はっきりとそう思った。

 森口先生が教室に入ってきてホームルームが始まったけれど、咲子ちゃんはいなかった。先生が出席を取りながら、岸は風邪で休みだそうだ、と、咲子ちゃんの苗字を言った。



 学校が終わってホームすずらんへ向かう前に、マスクは捨ててしまった。深く息を吸うと、胸がひんやりと冷たい。今日は雪も雨も降っていないけれど、曇りで、ずっと向こうまで薄いグレーのまったいらな空だ。

 ホームのバイトも一日休んでしまったから、出勤して一番、もえみさんに、すみませんでした、と頭を下げて謝った。もえみさんは豪快に笑って大丈夫だよと言ってくれて、元気になったっぽいね、と言ってくれて、私はやっと笑ってみることができた。

 今日は皆調子が良かったのか、ミキオさん以外の利用者さんも夕食のあと居間に残っていて、皆で折り紙をして遊んだ。ホームは穏やかな時間が流れていた。



 帰りの電車に乗りながら咲子ちゃんにメールを書いた。咲子ちゃん、風邪は大丈夫?私も、昨日とおとといは風邪で休んでしまいました。早く治るといいね。土日、ゆっくり休んでね。書いて、消した。咲子ちゃん、ごめんね。私は、咲子ちゃんの、どんな話も聞きたいです。私は、咲子ちゃんが大好きです。書いて、消した。と、同時に携帯が震えだして、思わず取り落としそうになる。

 画面に咲子ちゃんの名前があった。ちょうど電車が駅に停まって、開いたドアから外に飛び出して通話ボタンを押した。


「さ、咲子ちゃん!」

「……うん」


 私があまりに勢い込んで電話に出たので、咲子ちゃんはちょっとびっくりしたみたいだった。電話の向こうで、息をする音が微かに聴こえた。


「……」

「……」

「……あのね、ゆきちゃん」

「うん」

「ゆきちゃん、ごめんね、私」

「うん、」

「……」

「あの、あのね、咲子ちゃん」

「うん」

「わ、私も、休んじゃったの、昨日」

「……そう、なの」

「うん、そう、……あのね、咲子ちゃん」

「うん」

「私、私ね、咲子ちゃんが声かけてくれて、嬉しかった、話せて、嬉しかった、一緒に、図書館行って、仲良くなれて、嬉しかった、でも、初めてで、私、こんなの初めてで、咲子ちゃんの、話、ちゃんと、聞けなくて、でも、でも、聞きたかったの、本当は、私ね、咲子ちゃん、咲子ちゃんのことが、大好きなの、だから、だからね、また、これからも、また、」


 息が詰まって、少しだけ携帯から顔を話して深呼吸をした。ゆきちゃん、と電話の向こうで言った、咲子ちゃんの声が、泣いていた。私はぐっと唇を噛んで、上を向いた。

 気付いたら、乗り換えの駅でも何でもない途中の駅で降りてしまっていた。電話を切ってから次の電車を待つ間、ホームのベンチに座って少しだけ泣いた。悲しいのとも苦しいのとも違う、不思議な涙だった。



 週末、久しぶりに市立図書館へ行った。風が強くて寒いけれど、空はからりと晴れて、図書館の壁のマジックミラーに青い空が映っている。

 まっすぐ入り口を入って、待合室へ。ふと、足を止めた。いつもよりさらに薄暗いような部屋の隅、天井の蛍光灯が、ひとつ切れている。そして、ウーパールーパーはいなかった。水槽もない。がらんとした一角には、何も置かれていなかった。

 振り向いて行こうとして少しふらついた私は、後ろを通ろうとしていた知らないおじさんにぶつかってしまった。おじさんは怒らずに、おっと、大丈夫かい、と優しく言ってくれた。私は、大丈夫です、すみません、と、きちんとお辞儀をして、言うことができた。

 二階の自習室へ上がって、宿題をしてから、森口先生が貸してくれた進路の本を読んだ。先生の机の上には、言っていたとおり本当に本や資料が山のように積みあがっていて、本を借りるときに先生が進路指導の担当なのだということを初めて聞いて知った。今にもなだれてきそうな本の山には、いろんな色の付箋がいくつも貼ってあった。


 二冊持ってきていた本を読み終えると、もう閉館に近い時間だった。一階へ降りて、図書館の閲覧室に入ると、カウンターに麻生さんが座っていた。

 そういえば、今日は、駐車場を見なかった。そんなに長い間、会っていないわけじゃないのに、なんだか懐かしいような、見慣れないような、不思議な気持ちになった。本を何冊か選んできて借りるとき、バーコードを通しながら、あのね、と麻生さんが言った。


「僕、もうすぐ辞めるんだ、ここ」

「……え、……そう、なんですか」

「うん、そう……ちょっとね、……あの、この後、少し時間ある、かな、もうすぐ仕事、上がるから……あの、無理でなかったら」


 はい、大丈夫です、と私は頷く。心臓がどきどきと言っている。息を吸った。


「じゃあ、ギブソンで待ってます」


 私が言うと、麻生さんは今日、初めて笑った。


「しぶいね」


 ギブソンというのは、図書館の裏にある、私が経済的に余裕のあるときだけごくたまに行くところのひとつ、古い喫茶店で、いつもガラガラに空いていて、長い時間座っていても何も言われない。前に行ったときドアのところの貼り紙に、金曜と土曜は夜九時まで営業と書いてあったから、閉館後でも大丈夫だろう。私は本を鞄に入れて、小さく頭を下げて、その場を離れた。


 麻生さんがギブソンに入ってきたのは、六時半を少し回ったころだった。待たせてごめん、と言いながら向かいに座った麻生さんがコートを脱ぐとき、冬の夜の冷たい空気がふわりと香った。

 付き合わせるおわびにご馳走するからね、と言って、麻生さんは自分のコーヒーと一緒に、私に紅茶のおかわりを頼んでくれた。ギブソンの建てつけの悪い窓ガラスが外の風にかたかたと数回震えた。

 

「……お仕事、辞めちゃうんですか」


 私が先に口を開いた。うん、と麻生さんは頷いた。


「図書館、臨時職員だから、アルバイトみたいなものだからね、ちょっと……どうしても、なんていうかな、不安定でね」

「そう、なんですね」

「うん、そう……それで、すずらん作業所の系列で、もう一つ作業所が新しくできることになってね、そこで働くことにしたんだ」


 そうなんですね、とまた同じ言葉を私は言った。夏に、作業所のお祭りやホームで手伝いをしているときの麻生さんは楽しそうに見えたのに、今、そこで働くことになったことを麻生さんは喜んでいないように感じた。


「図書館の、お仕事、好きだったんですか」

「え、……うん、そうだね、好きだった……というか、兄貴があんなふうだから、一応ね、そういう勉強はしてきても、別の世界で生きたかった、っていう考えが強かったのかもね」

「……」


 黙ったまま、頷く。身内に知的障害をもつ人がいる、ということについて、私は経験したことがないからわからなかった。でも、きっとたくさん思うところがあって、麻生さんみたいな優しい人でも、嫌なことや、逃げたくなることもあったんだろう。麻生さんは、今月いっぱいで転職するのだと言った。


「ごめんね、こんな話をして」

「いえ、……あの、全然、ごめんねじゃないです」


 そう、ありがとう、と麻生さんは口もとだけ笑った。

 しばしの沈黙が降りた。麻生さんと二人でいて初めて、沈黙を重苦しいと思った。嘘のように、不安だった。少し前まで、麻生さんと話しているときが、いちばん安心できた気がしたのに。

 目の前に座っている彼が急に知らない男の人のように見えて、テーブルの小さな傷へ視線を逸らす。初老のマスターがコーヒーと紅茶を、少し足を引きずりながらゆっくりと運んできた。


「「あの」」


 同時に声を出して、同時に、黙った。どうぞ、と麻生さんは優しく言ってくれた。


「ウーパールーパー、いなくなってました」

「ああ、そうだね」

「どうして、ですか」

「うん、あそこの待合、改装することになってね、僕、うちに持って帰ろうかと思ってたんだけど、元の持ち主、海外行ってた友達ね、そいつが帰国して引き取って行ったんだ」


 よかったです、死んじゃったんじゃなくて、と私が言うと、大丈夫だよ、と麻生さんは短く、でもやっぱり優しい口調で言う。そうしてさっき言いかけたことを話すのかと思っていたけど、しばらく経っても黙ったままでいた。


「……あ、あの、ご結婚、おめでとうございます」

「え、あ、うん……えっと、誰かに聞いた?」

「聞いてないです、けど、そうなのかなって、思って」

「うん、まあ、うーん……おめでたい、のかな」

「……おめでたく、ないんですか」

「……いや、まあ……ね、くされ縁みたいなもんだしね」

「……おさななじみ、とかなんですか」

「や、専門のときなんだけどね」

 

 麻生さんは眼鏡を外して、ポケットからハンカチを出してレンズを拭いた。ハンカチはセーターと同じ深い青色で、きちんとアイロンがかかっていた。


「……ちょっとね、喧嘩とか多くてね」


 麻生さんが婚約者のことを言っているのだということはすぐにわかった。でも、喧嘩とか、というそれが、前にもえみさんたちが言っていたように婚約者の女性がお風呂場に立てこもったりすることを言うのか、それとも、ただお互いに怒ってひどいことを言い合ったりするのか、その両方なのか、どちらでもないのか、それは、わからなかった。なぜ今、私に、そのことを言ったのかも。


「ゆきちゃんみたいな女の子と付き合ったらよかったかな」


 喉の奥がかあっと熱くなった。私は下を向いて、一度目を閉じて、開けた。涙は出ない。テーブルの下で、鞄の紐をぐっと握った。


「……今日、今日だけ名前で呼ぶのは、やめてください」

「え、」

「この前は、苗字で呼びました、私のこと」


 このまえ、と、麻生さんは呟いた。忘れてしまったようにも、そうでないようにも思える言い方。

 私、と出した声は低く、でも、震えてはいないことを、どこか頭の片隅で、つめたく、確かめた。


「……私、麻生さんのことを、本当に、……素敵だと思って、助けて、助けてもらって、素敵な人だと、……思って、尊敬して、す、好き、好きでした、きっと、……でも、今、婚約している人がいるのに、そんなことを言う麻生さんは、嫌いです」


 麻生さんは黙っていた。どんな顔をしているか見ることは、怖くてできなかった。握りしめた自分の拳だけを見ながら、私は言った。


「わ、私は、自分のことが、嫌いで、大嫌いで、でも、少しだけ好きになれたんです、すずらんのみんなと、麻生さん、麻生さんのおかげなんです、私は、麻生さんのことを、嫌いになりたくないです、だから、もう」


 わかった、と、ごめん、と麻生さんは言った。別の人みたいに、情けない声だった。私が何か話しているときに、麻生さんが遮るようにして何か言うのは初めてだった。

 顔を上げて、麻生さんの方を見た。麻生さんは、こちらを見てはいなかった。眼鏡の奥の目が、少しだけ潤んでいるようにも見えた。けれど、気のせいだったのかもしれない。

 私は立ち上がって、深く、お辞儀をして、店を出た。強い風にドアが押される。暖房の効いた中にいたはずなのに、指先が冷たくかじかんでいた。



 家に帰ると、母が食卓に突っ伏して眠っていた。電気も暖房も点けないまま。お母さん、と声を掛けようとすると、先にふっと顔を上げ、掠れた声で言った。


「ママ」


 え、と思わず声を上げると、母は目を開け、二、三度頭を振る。


「私、ママじゃない」


 言うと、眉を顰めるようにして幾度か瞬きをする。いつも帰ってきてすぐでもきちんとしているのに、今日は目の下に少しお化粧が落ちている。今日も土曜なのに出勤だったみたいだし、特別仕事が忙しかったのか、何か疲れてしまうようなことがあったのかもしれない。


「……ママって言った、私」

「うん、言った」


 私が答えると、母は、そう、と言って綺麗にマニキュアをした指で目の下を擦りながら、苦笑いのように笑う。

 ママ、というのは、母のお母さんのことだろう。私にとっては祖母。覚えている限り、祖母には、会ったことがない。亡くなっている、ということでは、ないのだそうだけれど。


「何時、今」

「えっと、……七時半、ちょっと」

「遅かったのね、ゆき」

「うん……あの、図書館」

「そう」

「お母さん」

「なに」

「私、夜ご飯、作る、今日」

「……なに、突然」

「夜ご飯、作る、あのね、もう、きゅうりも切れるし」


 言うと、なにそれ、と母は言って、初めてこちらを見て、初めて、私の方を見て、もう一度、少しだけ笑った。


 ホームでもえみさんに習ったオムライスと、サラダを作った。きゅうりは、ちゃんと緑色のところがついた千切りにして。オムライスは形が崩れてしまったけど、母は全部食べてくれた。


「美味しいよ」

「え!え、ほんと」

「うん、ほんと……ねえ、ゆき」

「うん」

「……ううん、なんでもない」


 言って、母は立ち上がり、キッチンへ食器を運んで行った。私はその後ろ姿を見ながら、残りのオムライスをゆっくりスプーンで掬った。

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