マーブルの章(前編)

 十二月のはじめ、期末テストの最終日。この冬初めての、雪が降った。私の住む街では冬でもほとんど雪は降らないから、その日は朝、目が覚めたときから、そわそわと落ち着かないような気持ちだった。

 普段高校までは自転車で通うが、天気の悪い日はバスを使う。母は電車が遅れるかもしれないと言って、いつもより早い時間に家を出て行った。時間通りにバス停へ向かいながら、バスが遅れていたらどうしよう、と不安になる。幸い、学校の方へ向かうバスは遅れずに来た。


 最終日のテストは現代文と数学だった。一限目の現代文は、なんとか回答欄を全部埋めることができた。テスト用紙を前の席の人に送り終えてほっと息を吐くと、窓際から歓声に似た声が上がった。ふと見ると、朝は小降りだった雪が大粒になり、真っ白に曇った空から、後からあとから降ってきている。教壇の先生から、静かに、と声がかかり、前を向いた。

 二限目の数学は問題を全部解く前に時間切れになってしまった。テスト勉強は、たぶん高校に入ってから一番頑張った、と思う。でも、きっとあまり出来はよくないだろう。数学の成績がよくないのはいつものことなのだけれど、結果が返ってきたらまた母に怒られると思うと気が重かった。ふと横を見て、紺色の制服のクラスメイトたちの並ぶ向こう、勢いのやまない雪に少し安心したような気持ちになる。


 雪のせいかホームルームも手短に終わり、お昼にならないうちに下校になった。バスケ部やバレー部の子は今日も練習があるようで、教室の隅で広げられたお弁当のいい匂いがする。家の近くのコンビニでお昼ご飯を買って帰ろう、と思いながら校舎を出て、バス停の列に並ぶ。高校の前のバス停は、いくつかの路線が走っている。私の乗るバスの前に来た、違う路線のバスに数人が乗り込んで行った。

 しばらく待っても、乗るはずのバスはなかなか来ない。そっと列の後ろに回って時刻表を確かめると、少しバスが遅れているようで、次のバスがやっと来た、と思ったら、私の乗るバスより後の時刻の、また違う路線のバスだった。どうやら、私の乗りたいバスだけ遅れてきているようだ。

 困ったなあ、時間かかるけど、歩いて帰ろうかなあ、と思っていると、後ろから声を掛けられた。


「バス、来ないね」


 振り返ると、同じクラスの咲子ちゃんが立っていた。市役所行きのやつだよね、と問われて、頷く。咲子ちゃんは、十月の体育祭の準備で、一緒に応援用の横断幕を作る班にいた子だった。班の中に多かった美術部ではなく、部活には入っていないと言っていたけれど、色塗りも線描きもとても上手だった。

 咄嗟にちゃんと返事ができなかった私に怪訝そうな顔をするでもなく、なんかね、と咲子ちゃんは続けた。


「山の方で通行止めになっちゃったんだって、この路線だけずーっとあっちから来るから、それだけ遅れてるんだって」

「そう、なんだ」

「うん、森センにさっき聞いた」


 担任の森口先生のあだ名を言って、困ったね、と苦笑する。咲子ちゃんは、とても美人だ。色白で睫毛が長くて、背が高い。ベージュのトレンチコートと、チェック柄のマフラーがよく似合っている。


「わ、私」

「うん」

「歩いて帰ろうかなって思ってたの」


 そうなの、と咲子ちゃんは言った。うん、と頷きながら、頬が熱くなる。唐突に、変なことを言ってしまったかも。でも、咲子ちゃんは予想に反して、じゃあ、と明るく言った。


「私もそうする、途中まで一緒に帰ろ?」


 咲子ちゃんの家は私と同じ方向だというのを、初めて知った。聞くと、今までバスに乗った日も会わなかったのは、咲子ちゃんは雨の日は歩いて通学していたからだった。でも、今日はあんまり寒すぎてバスにしちゃった、と、白い息を吐きながら笑った。


「ね、ゆきちゃん、これから、ちょっとだけ暇?」

「え」

「お昼、どこかで食べない、マックとか」

「あ、え」

「あ、都合悪かったら、無理しなくても」

「ううん、うん、行く!」


 咲子ちゃんが私のことをすごく自然に名前で呼んでくれたので驚いてしまった。横断幕の班になってから、私は心の中ではほかの子たちと同じように咲子ちゃん、と呼んでいたけど、本当に声に出して呼ぶとしたら、苗字で呼んでしまうだろうと思っていた。でも、咲子ちゃんがゆきちゃんと呼んでくれたから、私も堂々と咲子ちゃんと呼ぼう、と心に決めた。


 バス通りのマックで窓際の二人掛けのテーブル席に向かい合って座って、雪の降るのを眺めながらお昼を食べた。最初は緊張していたけど、咲子ちゃんが色々と話をしてくれるうちにちゃんと答えられるようになって、少しずつ気持ちが楽になってくるのがわかった。

 咲子ちゃんはピアノを習っていて、今日も夕方からレッスンなのだと言った。なるほど、と私はすごく納得した。咲子ちゃんの長くて細い指、短く切られているけど綺麗な爪に、ピアノの鍵盤はとてもよく似合うと思う。

 

「ゆきちゃんは?」

「え」

「これから、何か用事あるの?」

「あ、私は」


 テストは終わったけれど、今日は月曜なのでケアホームのバイトはない。予定は何もなかったけれど、何となくこのまままっすぐ帰るのは惜しいような気がしていた。


「……図書館、行こうかな」

「へえ、本、好きなんだ」

「うん、好き……かな」

「そういえば、学校で、図書室、行くとこ見掛けたかも」

「あ、うん、たまに……」

「なんか、かっこいいね」

「え、え?」


 びっくりした拍子にココアのカップを倒しそうになってしまって、咲子ちゃんがそれを支えてくれる。ごめん、と言うと、ゆきちゃんてちょっと、天然かも、と咲子ちゃんは楽しそうに笑った。


「あ、咲子ちゃん!」

「うん?」

「ピアノも、かっこいいよ」

「え、ありがと」


 短く答えた咲子ちゃんの顔は誇らしそうで、ピアノを弾くことがほんとに好きなんだなあ、と思う。なんだか、たくさんの発見があった午後だった。


「市立図書館行くの?」

「あ、うん、そう、家から、結構近くだから」

「ね、ゆきちゃん、県立図書館行ったことある?」

「え、ううん、ない……どこにあるの?」

「えっとね、市役所の前、だから、たぶんゆきちゃんちの近くのバス停から学校と逆方向?自転車でも行けると思うけど」

「そうなんだ」

「県立図書館、面白いよ、なんかね、本も市立図書館よりいっぱいあるし、私の趣味なんだけど、楽譜とか、あと写真集とかもあるし」

「行ってみたい、な」

「今度さ、一緒に行こ?」

「うん」


 咲子ちゃんのレッスンの時間になるまで話をして、店を出た。歩道にうっすらと雪が積もっていて、わあ、と思わず歓声をあげたら、咲子ちゃんも隣で同じタイミングで、わあ、と言っていて、顔を見合わせて笑ってしまう。


 咲子ちゃんと別れてから、雪の中をさくさくと歩いて市立図書館へ行った。図書館へ近付くにつれ、心臓の音が大きくなっているのがわかる。まっすぐ入り口へは行かず裏側に回って、職員駐車場に停まっている車を確かめた。黒の軽自動車は、今日は止まっていない。

 斜め上に向けて、ほう、と息を吐くと、白く濁った。息を整えてから、入り口の方へ向かう。


 黒の軽自動車は、麻生さんの車。夏に一回だけ乗せてもらったから、知っている。ナンバーとか詳しい車種までは覚えていないから、黒の軽自動車が停まっていれば、中には入らない。

 麻生さんに婚約者がいるということを知ってから、知ってしまってから、私はずっと麻生さんのことを避けていた。本当に私が勝手に避けているというだけのことなので、麻生さんは気付いていないかもしれない。もしかしたら、ずっと図書館に通っていたのが急に来なくなったことぐらいは、気が付いているかもしれないけれど。

 もし、どこかで出会ってしまったとして、そう言われたときの言い訳をいろいろと考えてしまっている自分が嫌だった。麻生さんのものと思しき車が停まっているときは、ここの返却ポストは開館日でも使えるから、そっとポストに本を返して帰る。そのくせ、本を借りる用事も返す用事もないときにも、何度かそっと駐車場だけを覗きに来たりしていた。


 麻生さんに婚約者がいると聞いた日、私は失恋したのかもしれなかった。今まで男の人を好きになったことなどないから、それが恋なのか、恋だったのか、何なのか、私にはわからない。

 もしかしたら、麻生さんが私のことを助けてくれたり、車で送ってくれたり、水族館に誘ってくれたりしたことで、期待していたのかもしれない。麻生さんが、あんなに大人の素敵な人が、私のことを、好きになってくれたんじゃないかと、期待していたのかもしれない。そう思うたびに、小さくなって地面にめり込んで死んでしまいたいような気持ちになる。

 ただ今日は、咲子ちゃんとお喋りすることができたからか、その真っ黒に重苦しい気持ちは少し、軽くなっているような気がした。


 カウンターに座っていたのは、初めて見掛ける若い女の人と、年配の男の人。返却の手続きをしてもらっている間、そっと周りを見回す。

 平日の午後、館内はひっそりとしていた。隅のソファで新聞を読みながらおじいさんが居眠りをしている。全部お返しいただきました、という職員さんの声ではっと我に返り、カウンターへ向き直った。

 図書館を出ると、雪は止んでいた。



 夜遅くに窓の外の雨の音で一度目を覚ました。一度止んだ雪は夕方から雨になり、朝になっても降っていた。朝、外へ出ると雪はほとんど溶けてしまい、道の端や家々の前によけられた塊が茶色く汚れているだけだった。

 天気予報で見た気温は昨日のほうがずっと低かったのに、雪よりも雨の日のほうが寒いような気がするのはなんでだろう。家を出るのが少し遅くなってしまい、定刻通りのバスにギリギリで乗り込んで、学校へ行った。



 それから私は、学校でお昼ご飯を咲子ちゃんたちと食べるようになった。たち、というのは、咲子ちゃんだけじゃなくて、咲子ちゃんと、瑞穂ちゃんと、さくらちゃん。

 瑞穂ちゃんとさくらちゃんも、体育祭の準備で同じ班だった。咲子ちゃんから誘ってもらったとはいえ二人とはあまり話したことがなかったから、輪に加わるときは緊張したけれど、二人とも嫌そうな顔もせず机をもうひとつくっつけてくれた。

 お昼は毎日必ず四人で食べるわけではなくて、瑞穂ちゃんは演劇部の練習が忙しいときは部室で食べるし、美大を目指しているのだというさくらちゃんは、予備校の課題が多いときにはひとりで机でぱっと食べて美術室へ行ってしまう。咲子ちゃんも、今の時期はのんびり教室にいるけど、コンクール前は食べたらすぐ音楽室に練習しに行くよ、と言った。

 思えば小学校から今まで、友達が一度もできなかったわけではない。ただ、ずっと何をするのも一緒にいるということが苦手で、まごまごしているうちに、いつまで経っても打ち解けられない人、と思われてしまうようだった。だから、こんなふうにマイペースに付き合っている三人の雰囲気はとても新鮮だったし、素敵だと思った。

 咲子ちゃんも、瑞穂ちゃんもさくらちゃんも、クラスで目立つタイプではない(誰よりいちばん目立たない私が言うのも失礼だけど)。でも、三人とも自分の特技や好きなことを持っていて、それぞれに頑張っている。

 今まで誰と一緒にいても自分と比べてしまって、私の方がダメな人だ、と劣等感や羨ましい気持ちばかりを持ってしまっていたけれど、なぜだか不思議と、その気持ちは沸いてこなかった。それはもしかしたら、私もホームでバイトを頑張っている、と、少しだけでも自信のようなものが、初めてあるからかもしれなかった。


 二学期の終わる頃には、咲子ちゃんが席を外して瑞穂ちゃんやさくらちゃんとだけ一緒にいるときでも、自然に会話ができるようになっていた。図書室へ行く回数はぐっと減ったけれど、週に一度は本を借りに行っていた。ご飯を食べ終えたあと、一緒に食べていた咲子ちゃんたちに図書室に行ってくるねと言って席を立つのは、ひとりでひっそりと行くことよりずっと嬉しいやり方だった。

 期末テストの結果はほぼ想像通りで母に嫌味をいっぱい言われたけれど、現代文の点数が前より良かったから、しばらく落ち込んだあと、それで、ひとつだけ、自分を褒めてみた。



 県立図書館は六階建ての大きな建物で、市役所の前の大きな通りにある。煉瓦造りの市立図書館とは対照的な、会社とかが入っているビルのような外観。冬休みの初日、咲子ちゃんと一緒に、私は初めてそこを訪れた。からっと晴れた小春日和で、自転車に乗って待ち合わせして行った。

 入り口を入った途端、私は思わず上を向いて口を開けたまま、わああ、と言ってしまった。市立図書館よりずっと広いフロアにぎっしりと本が並んでいて、しかも、中央は吹き抜けになっている。ね、すごいよね、と隣で咲子ちゃんが笑った。

 一階はカウンターとロビーになっていて、二階から五階までが本棚の並ぶフロア、六階には会議室という標示があった。カウンターでカードを作ってもらって、二階の、小説のコーナーのあるフロアで少し本を見てから、自習室に行った。本の数が多いせいか本棚と本棚の間はとても狭く、斜め掛けのかばんがぶつからないように気を付けながら通る。

 自習室は地下一階にあって、ここも市立図書館よりずっと広い。絨毯敷きなのに足音がよく聞こえるほどしんとしていて、お喋りは憚られた。広い机の端の席に咲子ちゃんと隣同士に座って、時々ノートの端に筆談しながら、宿題をした。


 自習室を出てくると左手に、隣に自動販売機といくつかのソファが置いてある待合コーナーがあった。その隅に、水槽が一つ。泳いでいるのは、


(マーブル)


 後から出てきた咲子ちゃんが、立ち止まっている私にどしたの、と問う。


「あ、なんか、水槽あるなって」

「あ、ほんとだ、初めて気付いた……なんだろ、中にいるの」


 咲子ちゃんは軽い足取りでそちらへ近付いていく。横から水槽を覗きこみ、うわっ、と小さな声を上げた。


「なんか、なんだろこれ、トカゲ?ヤモリ?あ、サンショウウオ?」

「……これ、ウーパールーパー」

「え、ウーパールーパーって、白いやつじゃないの?」

「あ、あのね、こういう、灰色と黒みたいなやつもいるんだ」

「へえ、そうなんだ……なんかさ、どこが目かわかんないね」


 っていうか、ゆきちゃんよく知ってるね、と言った咲子ちゃんの声は楽しげで、私はほっとして、目も口もパッと見よくわからない、黒とグレーのマーブル模様の彼(彼女かも)を、もう一度見た。リューシスティックやアルビノに比べると、たしかにトカゲとかサンショウウオっぽい。この子も、誰かが連れてきたのかな、と思いかけて、飲み込んで、前を向いた。


 年末に入るまで私は何度か県立図書館を訪れ、本を読んだり、自習室で宿題をしたりした。咲子ちゃんと一緒に来たり図書館で会うときもあれば、一人で来て一人で帰るときもあった。ウーパールーパーのいる待合室は横を通るだけで、あまり立ち寄らなかった。

 気付けばその間、私は一度も市立図書館へ行かなかった。



 年末年始はホームも休みになり、利用者さんたちは、それぞれ自宅でお正月を過ごす。年内最後のアルバイトは、ホームひまわりでの勤務だった。

 少し早いけど、と、夕食はお蕎麦を食べた。ホームの代表の佐々木さんの趣味は蕎麦打ちなのだという。よっしゃー、と気合いを入れた佐々木さんがねじりはち巻きをして、テレビでしか見たことのない、麺を切る大きな包丁みたいな道具を食卓の上にドンと出したのでびっくりしてしまった。もう一人の職員の樋口さんはそれを見て、すごい、いろんな意味で初めて見た、と言って大爆笑しながら写メを撮っていた。

 しっかりと出汁を取った温かいお蕎麦は、うまく麺をすすれなくてあたりをビショビショにしてしまったハルカさんの介助をしているうちにだいぶ冷めてしまったけれど、とても美味しかった。


「あれ、麻生くん今日来るんだっけ?」


 ふと樋口さんが言ったのを聞いて、胸の真ん中あたりがどきんとした。麻生さん、という名を聞くこと自体がとても久しぶりのような気がした。ホームひまわりの利用者さんの中には、麻生さんのお兄さんがいる。でも、利用者さんのことはいつも下の名前で呼んでいるから、やっぱり久しぶりだ。

 あーそうだったね、と佐々木さんがのんびりした声で返事をする。バイトを上がる時間だったら帰ってしまおう、と思って時計を見たけれど、まだ八時にもなっていなかった。


 麻生さんは八時半すぎにホームへやって来た。麻生さんの後ろから、女の人が顔を出した。桜色のセーターにジーパンを着て、赤縁の眼鏡をかけたその人は、前に水谷さんと樋口さんが噂していた、お風呂場に立てこもったりするとは到底思えないような、普通の人に見えた。普通の、とても綺麗な人。

 はじめまして、と、私はきちんと挨拶をすることができた。その返事も、ごく普通の、素敵な女の人のような、女の人だった。麻生さんもホームの他の人たちもはっきりとは言わなかったけれど、二人で挨拶をしに来たということは、麻生さんはとうとう、結婚するんだなと思った。

 麻生さんとの再会はあまりにあっけなく、麻生さんはいつものように柔和に笑って、高野さん、何か久しぶりだね、元気でしたか、と言った。麻生さんは、婚約者の女の人の前で、私のことを名前では呼ばなかった。



 三学期が始まってすぐ、二者面談があった。気の進まない行事ではあるが、母と一緒の三者面談よりは気が楽だ。半日授業の放課後、面談用に机をずらした教室へ入って行った私を迎えた森口先生は、予想に反して笑顔だった。


「最近どうだ」

「……先生、どうだ、って訊かれると、どう言っていいかわかりません」


 私が言うと、先生はハハハと笑った。


「高野、はっきりもの言うようになったな」


 入学してきたときは線が細い感じだったけど、一年でたくましくなってきたんじゃないか、最近表情も明るいし、と先生は意外にも私のことを褒めてくれた。


「将来のこととか、進学したい学科とか、何か考えてるのか」

「……あ、あの、先生、私、福祉の勉強を」


 ほう、と先生が驚いたような顔をしてこちらを見たので、下を向いてしまう。そうなのか、と言われて、はい、と私は頷いた。頬が熱くなっている。

 本当は、まだ何も考えていませんと言うつもりだった。咄嗟に口から出た言葉に、自分でも驚いていた。福祉、という単語すら、ホームでアルバイトを始めてから、インターネットで調べたのだ。

 少し沈黙があり、視線を上げて先生の方を見ると、先生は何も言わず、手で促すような仕草をする。さっき途中で話すのをやめたことを言ってみなさい、と、メガネの奥のギョロ目が言っていた。


 「あの、アルバイトで、ケアホームで働いていて、と、とても勉強に、なっていて、障害のある人たちのこととか、でも、わからないこととか、できないこともたくさんあって、だから、勉強したいなって……思って、思ってます」


 ふむ、と真面目な顔をして先生は頷いた。

 

「いろいろ、進学先の情報とかその先の進路なんかを調べてみるといいな、今、高野が興味を持ってるのは障害者支援だが、福祉の勉強すると言っても色々あるしな、四年制の大学もあるし、短大も、専門学校もあるし、うん、大変な世界ではあるが、やりがいのある仕事だな……まあ、職員室の僕の机なんかにも資料が山積みになってるから、いつでも言いなさい」

「……はい」

「成績、ちょっとずつ上がってきてるからな、頑張れば、可能性も増える」

「はい」

「まあ、今の高野なら大丈夫だ、頑張りなさい」

「はい」

 

 教室を出るとき、頑張れよ、ともう一度言った先生はやはり笑顔だった。今まで誰に言われるのも苦手だった、頑張れ、という言葉が、初めて嬉しかった。


 廊下に出ると並べた椅子の端に座った咲子ちゃんが小さく手を振った。私の二人後が咲子ちゃんの順番だったので、一緒に帰ろうか、と言っていたのだった。教室にはストーブがあるけれど廊下は寒くて、二人ともコートを着たまま、咲子ちゃんの前の人が出てくるのを待ちながら、寒いね、うん、寒い、と短い会話だけをした。

 面談どうだった、と聞かれて、うーん、大学とか調べて、頑張りなさいって言われた、と答えると、そっか、と咲子ちゃんは短く返事をした。



 面接が終わって出てきた咲子ちゃんと一緒に自転車置き場まで向かう。いつもは何でもないことでもたくさん話す咲子ちゃんが今日は黙っていて、私から何か話そうと何度も思っても、言葉は、形にならないまま喉元で霧散していった。自転車置き場の前で立ち止まって、ふと、咲子ちゃんが言った。


「森セン、音大、無理かもって」

「え、え、……」

「厳しいって、言われた」

「……でも、でも、まだ、一年生なのに」

「……一年生だからこそ、他の選択肢も考えておけ、って」

 

 どう答えたらいいかわからなくて、また黙ってしまう。私は音楽にも詳しくないし、咲子ちゃんがどれだけ上手なのかも、どんなふうに練習しているのかも全然知らないけれど、普段話していて、咲子ちゃんが本当にピアノが好きで、毎日一生懸命練習していることは知っていた。それに、成績だって咲子ちゃんは私よりずっと良いはずなのに。


「いいな、ゆきちゃんは」


 ぽつりと、咲子ちゃんが言った。え、と私は言って、咲子ちゃんの顔を見た。


「ゆきちゃんみたいに、なりたい、私」


 いつも話すときまっすぐ私の目を見てくれる咲子ちゃんの視線は、今日はあさっての方を向いて揺れていた。いつも微笑んでいる咲子ちゃんの口もとが固く引き結ばれていて、私は、黙ったままでしかいられなかった。


「……ごめんね、テンション下がっちゃったね?」


 え、え、そんな、と言った声は上擦った。ごめんね、もう言わないね、と無理やりのように微笑んで咲子ちゃんは言った。

 私は、何も言えなかった。違う、と言っても信じてもらえないような気がして、何も言えなかった。黙ったまま自転車に乗って、分かれ道まで無言で自転車を漕いだ。曇った空から、額に、ぽつりと雨が当たった。



 ああ、やっぱり駄目だった、と、まばらに落ちてくる雨の中、自転車を漕ぎながら私は思った。心の奥底で、今度こそ大丈夫、咲子ちゃんなら、大丈夫だと思ったけど、やっぱり駄目だった。それは、きっと、咲子ちゃんが駄目だったんじゃなくて、私が。私が、やっぱり駄目だった。

 今まで、誰かのことを羨むばかりだった。だから、羨まれる人になりたかった。ゆきちゃんはいいな、ゆきちゃんみたいになりたい、一度でいいからそう言われたかった。でも、本当にそう言われた今、何も、ひとつも、嬉しくない。

 今まで、誰とも本当に仲良くなれたことがなかった。だから、咲子ちゃんと仲良くなれたような気がして、とても嬉しかった。でも、咲子ちゃんはきっともう、今日みたいに嫌なことや苦しいことがあったとき、私に言ってはくれないだろう。それは、本当に仲が良い、というのとは、決定的に何かが違うような気がした。

 私は、どんなに嘘っぽくても、さっき、違うと言えばよかったんだ。テンションが下がったんじゃなくて、その話を聞きたくなかったんじゃなくて、咲子ちゃんがつらそうだったのにどうしたらいいかわからなくて、ただ、自分までつらくなってしまって、黙ってしまったんだということを、一生懸命言うべきだった。

 私は、咲子ちゃんが最近、腕に包帯をしていることに気付いていた。ピアノの練習か、ほかの何かで、痛めてしまったのだろうことを。そのことに、私は触れられなかった。心配だったのに、何と言っていいかわからなくて、触れていいのかわからなくて、声をかけられなかった。どうしたの、と、大丈夫、と、聞けばよかったんだ。いろいろな、するべきことをしなかった私は、やっぱり、やっぱり、駄目だ。



 家に帰ると母がいた。今日は仕事のはずだったけれど、早く帰ってきたんだろうか。先週、土曜日も仕事に行っていたから、振り替えで休みを取ったのかもしれない。キッチンに掃除機をかけている母の眉間に皺が寄っているのを見て、胃の中につかえたしこりのようなものが少し大きくなった気がした。

 ゆき、と刺々しい声で言われて、痼がくっと上に上がってくる。


「床にパン屑落としたまま行かないでって言ったでしょ?」


 ごめんなさい、がすぐに言えないから母はもっと怒ると知っているのに、私はやっぱりすぐ返事ができない。


「きいてるの?ゆき、二者面談どうだったの?」


 二者面談、そうだ二者面談。一度唾を飲んで、あのね、と私は声を出した。


「先生がね、いろいろ大学、調べてみたらいいって、せ、専門とか、私立でもあるし、ちょっと成績上がったから、このまま頑張れば、」

「上がったって、ちょっとでしょ?」

「え、」

「専門卒じゃろくなお給料もらえないし、私立の中途半端なとこ行ってどうするわけ?あんたもだけど、先生も危機感ないのね」


 はあ、と大きな音で溜息。胃の中の痼がぐあああっと大きく広がって、身体を突き破って出てきてしまうような気がした。その黒い色が、高野なら大丈夫だ、と言ってくれた森口先生の笑顔をガシャガシャに塗りつぶした。

 私は黙ったまま後ろを向き、居間を出た。つま先が冷たく、痺れて、感覚がない。廊下を歩く足が震えていた。


 外へ出て初めて涙が出た。傘を持たずに出たからせめてコートのフードをかぶろう、と、そんなことを考えることすら誘い水になって、ますます涙があふれた。

 道を歩く人はほとんどいなかったけれど、雨に濡れた髪が顔を隠すように俯いて、泣きながら、私は歩いた。喉の奥からお腹の真ん中にかけてが焼けるように痛かったけれど、立ち止まることも座り込むこともせずに歩いた。だって今もう誰も、私を助けてくれるだなんて思っちゃいけない。雨はますます強く冷たくなっていた。



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