明日に架ける橋

micco

美古

 成生なりう教室責任者、紺野美古みこは苛立っていた。黒い物言わぬ塊をスリッパのつま先で蹴る。

「もう、なんでシュレッダーってのは、こうすぐに止まっちゃうかなぁ!」

 美古は今月一杯でこの塾を辞めることになっていたので「会社に関わる書類は全て破棄」とブロック長に厳命されていた。しかし、長年使われたポンコツは、すぐに熱を持って固まってしまうのだ。

「あー……だめだ、完全に止まった」

 紙を半ばまでくわえ込んだシュレッダーは沈黙し、うんともすんとも言わなくなっていた。こうなると、機嫌が直るまで待つほか無い。

 美古は薄暗い教室で独りため息を吐いた。書類はまだまだある。

 既に23時近い時刻。教室の蛍光灯は頭上の2つだけ点けた状態で作業をしていた。22時閉館の教室で灯りがついているのは、良くないからだ。会社的に。

 はぁ、と見上げた暗がりには『未来のために!』とポップな字で自社模擬試験のポスターが貼ってあった。仙台のキッズモデルを初めて採用したポスターは評判が良いらしい。これまでの硬いイメージを刷新したことで「広報本部が図に乗って、部長の話が長い」とブロック長の愚痴で聞かされたばかりだ。可愛らしいモデルに罪は無いが、胡乱な目でそれを見てしまう。部長の話が長いと、ブロック長の話は更に長くなるのだ。

 ふと甦る声。

「なぁ、お前、辞めるの止めないか」

 ブロック長は美古につまらない洒落のような話を何度もした。撤回ならまだ出来る、せめて年度末まで、と説得なのか懇願なのかを繰り返す。機嫌を取るかのようにお昼も奢ってくれた。もう10年近くお世話になった上司の言葉だから、美古としても最大限の譲歩でここまで駆け抜けてきたつもりだ。だけど。

 美古はしん、とした教室を見渡し、自分のデスクのイベントカレンダーを眺めた。今日は12月2日。今週末はテスト対策イベント、火曜日は昼から会議、木曜は営業会議、その週末は朝から中3の進路面談。12月の正規の休日は全て教室の予定で埋まっている。そして講習会が始まれば、クリスマスなど関係の無い世界だ。文字通り朝から晩まで声を嗄らして授業をする。

 生徒の未来のため、教室の利益のため、とそれをもう何年も続けてきた。理想に盲従していた時期もあった。

 ポスターの笑顔からふ、と目を逸らして足元のシュレッダーを見下ろす。使いすぎて使い物にならなくなった機械。何人この会社から辞めたろう。

 電気を流せばただ動き続けると思っているのか。動けなくなっても少し休ませればまた動けるようになると思っているのか。人なのに、会社で働いてるのは人なのに。教わってるのも人、教えてるのも人なのに。

 私達は機械じゃない。電気代を払えば自動で会社の利益を生み出す電化製品じゃ、ない。

 ダメだ、くたびれたからもう帰ろう。

 美古は暗くなる思考に頭を振り、スマホをバッグに投げ入れた。どちらにせよ退職届は受理されたのだ。

 コンビニにでも寄ってプリンでも買おう。

 教室を出て裏口にロックを掛け、軽自動車に乗り込む。エンジンをかけた。

 少々古くさいノイズの入ったピアノのイントロ。サイモン&ガーファンクル。「明日に架ける橋」

  

  When you’re weary 君が疲れ果てて

  Feeling small 自信もなくなって

  When tears are in your eyes 涙もこぼれてくるようだったら

  I will dry them all 僕がその涙をふいてあげよう

 

 私は『君』ではなく『僕』で在りたかった。誰かの未来のための橋に。

 思わずシートに身を沈めると、フロントガラスには霜が張っており、電灯の明かりにささやかにきらめいた。


  Like a bridge over troubled water 激流に架ける橋のように

  I will lay me down 僕が君を支えるから


 エンジンが温まるまで、美古はそのきらきらをいつまでも眺めていた。

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