第49話 心地よい関係
「わかりました。この後は先約があるのですが、明日ならお約束できます。ご都合はいかがですか」
その言葉に、舞美の瞳が輝いた。
「柏木礼司です。一応、この花園の責任者です」
「……あ、あの、お忙しいところごめんなさい。明日、いつでも大丈夫です。よろしくお願いします」
深々と頭を下げた舞美。
顔を上げた瞬間、潤み赤みを増した瞳を慌てて隠した。
そんなに嬉しいのか……
驚いて、思わず礼司も表情を緩めた。
「午後二時くらいに、お店にお伺いしてもよろしいでしょうか? 店舗規模に合わせた提案をしたいので」
「ありがとうございます! 是非、ご覧になってください。チャンスをくださりありがとうございます!」
舞美の素直さが滲み出た言葉は、辛口だった礼司の気持ちを一変させる力があった。
俺って奴は……調子のいいヤツだな。
でも、この時判断を覆した自分を誇らしく思っている。こんなに心地よくて、刺激に満ちた関係は、そうそう巡り会えるわけでは無い。
彼女の店はいつも誠実で、見失いがちな価値観に気づかせてくれるのだから。
そんな舞美を支えているのは亡き夫への想い―――
いつからだろうか。そのことを妬ましく感じる自分の心に気づいたのは。
立ち上がってスケッチブックをしまい終わった舞美に提案する。
「この先にお勧めの鰻屋さんがあるんだけど、どうかな?」
「鰻、美味しそう! 是非お願いします」
キラキラと瞳を輝かせる舞美から眩しそうに目をそらすと、誘うように歩き始めた。
暖簾が見えるより先に、香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。ピーク時を過ぎていたお陰で、それほど待たずに席に付くことができた。
乾いた喉を潤し一息つくと、どちらからとも無く今日見たことを話し始める。情報共有は閃きを確信に変えてくれるから、楽しくてずっと話していたくなる。
仕事とプライベートの境界があやふやになることは、普段なら落ち着かない気持ちになるのに、不思議と舞美とならば良いと思えた。
やっぱり、彼女は特別だな―――
会話を中断させたのは、甘じょっぱい香りと肝吸いの湯気。はふはふと冷ましながら頬張れば、ほろほろと蒲焼の身がほぐれていく。
「う〜ん、美味しいっ」
蕩けるような笑顔でもぐもぐと口を動かす舞美を見ているだけで、礼司の心がぽうっと温かくなった。
「口にあって良かった」
「はい、すっごく美味しいです。いつぶりかしら? そうよ。そうだわ。フルールの開店祝いと言って諒君と食べたっきり……」
そこで、はっと舞美が口をつぐんだ。
「亡くなったご主人……だよね」
「ええ、ごめんなさい。私ったら」
「いや、大丈夫。彼も鰻好きだったの?」
「ええ。美味しいもの食べに行こうって時は、フランス料理より鰻って言うタイプでしたね」
そう言って笑う舞美を、礼司は切なげに見つめた。
「素敵なご主人だね。その意思を継いでお店を守っている君も、素晴らしいよ。なかなかできることじゃ無い」
「柏木さん……ありがとうございます。でも、それも、最高の花を作ってくださって、こんな風にたくさんのアドバイスをくださる柏木さんのお陰でもあるんですよ。いつもありがとうございます」
箸を置くと深く頭を下げた。
「いや、俺の方こそ、舞美さんのバイタリティにいつも刺激をもらっているからね。お互いさまだよ。それに……そもそも、君がくれたご縁だしね」
いたずらっぽく笑った礼司に、一気に顔を赤らめる舞美。
「うわぁ、恥ずかしいこと思い出させないでくださいよぉ」
「え!? 恥ずかしくなんか」
「恥ずかしいですよ。もう、あの時の私、何かに憑かれたみたいに押しかけてましたよね~。まるでストーカーのように。ご迷惑をおかけしました」
「いや、そんなことは……ちょっと思ってた」
「やっぱり……」
にんまりと口の端を上げた礼司。次の瞬間、朗らかに笑い飛ばした。
「でも、その粘り強さに感謝しているんだよ。あの時君が花園に通い続けてくれなければ、今こうして一緒に鰻を食べることもできなかったからね」
「もう、柏木さんったら、鰻の話じゃなくて」
「いや、鰻も大事」
そう言ってまた笑う。
「本当に、君は凄いよ。普通だったら泣き崩れて動けなくなってしまう時に、必死でチャンスを掴もうとして」
「柏木さん……」
「『フルール・デュ・クール』の今は、舞美さんの努力の賜物だと思う。その仲間に入れてもらえて感謝しているよ」
「……ありがとうございます。そんな風に言っていただけて嬉しいです」
感無量な様子でうるりと瞳を瞬かせた舞美だったが、ふと真剣な表情になった。
「そんな、格好いい話でも無いんですよ。本当は私、お店を放って逃げ出しそうになっていたんです。不安とぶつけどころの無い怒りに振り回されて、途方にくれていました。悲しいとか、寂しいとかよりも、何で! って。理不尽だ、不公平だって、神様に怒鳴り散らしたい気持ちでいっぱいだったんです」
思いがけず溢れ落ちた舞美の本音に、礼司は驚きつつも静かに相槌を打つことしかできなかった。
「その時、優君が会社を辞めるって言い始めて」
ああ、そういう経緯で彼が一緒にお店を切り盛りすることになったんだな。
「店を手放したい気持ちと続けたい気持ちが半分こになっていた私は、最初素直に喜べなかったんです。でも、優君の本音は、自分のキャリアを犠牲にしてまで私を自由にさせることなんだって気づいて」
伏目がちだった舞美が、ついっと顔を上げた。再び真っ直ぐに礼司と目を合わせると、おどけたような笑みを浮かべる。
「私、天邪鬼なんです。やっぱり私がなんとかしなくちゃって、奮起しました」
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