第30話 雨宿り

 梅雨の合間の青空は、気まぐれに顔を出しては直ぐに隠れてしまう。

 俄に暗くなった空から、大粒の雨が降り落ちてきて、バシャバシャと大きな音を立て始めた。

 道行く人々が、慌てて店の軒先へ走り込み、鞄をガサゴソと探り傘を手にして去って行く。そんな中、空を見上げたまま途方にくれたように立ち尽くしているスーツ姿の男性が二人。


「折りたたみ傘、忘れてしまいました。すみません」


 若い方の男性がそう言って頭を下げると、上司らしき男性が柔らかな声で応えた。


「俺も、会社出る時、入れようって思ったのに入れ損なった。まあ、打ち合わせは終わっているし、この後の予定は入って無いし、少しここで待っていても問題ないよ。あ、でも店の人に悪いか」


 慌ててガラス越しに振り向いた。

 その様子が、何故かとても微笑ましく見えて好感が持てた。


「あの、よろしければ、これを使ってください」


 店のサービスで置いてあるビニール傘を差し出した雅に、恐縮して頭を下げた二人だったが、必ず返しに来ますと約束しながら去って行った。


 帰ってきた雅が、新生物でも見たように興奮して言う。


「なんか優しげな人たちだったね。世知辛い今の世の中で、あの二人の醸し出す雰囲気は貴重な気がする」

「そうだな。みんな社畜と化して余裕が無くなっているもんな」

「お前も銀行員時代はその一員だったんだな」

「まあな」

「その点、俺は助かっているよ」

「そうか? 未だ長期休暇も取れずにシフト三昧させていると思うが」

「別に。やりたいからやっている。だからいいんだよ」

「確かに、そうだな。やりたいことだったら苦にならない。いや、それも違うな」

「?」

やりたいことだから苦にならないっていうことなのかも。で、人間ってやりたいことや考え方が変わっていくことも多いから、好きだったことでも苦痛に感じる時があるんだろうな」


 いつになく滑らかに語る優を、驚いたように見つめる雅。


 優のやつ、今日はやけに素直だぞ。

 何か転機になるような出来事でもあったのかな?


 気になりつつも追求は避けた。


「なるほど。そんな時は、無理せず立ち止まったり放り出せたらいいんだけどな。まあ、現実はそうはいかねえな」

「だよな。でも雅、お前はそうしてくれよ」

「!?」


 一瞬、言葉を失った雅だったが、ふっと笑みを浮かべて言い返した。


「あったりまえだ。俺がお前に遠慮するとでも思っているのかよ」

「ありがとう」


 ほっとしたように礼を言う優に、心の中でツッコむ。


 会話があってねえよ。何が『ありがとう』だ!

 

 でも、何故かニヤけ顔が止まらない。

 互いの信頼の深さを改めて感じることができて、純粋に嬉しいのだ。


 一方の優も、照れたような笑みを隠せていなかった。


 無言のまま二人で頷き合って、そそくさと仕事に戻った。

 


 その週末、ビニール傘を貸した男性が返却に訪れた。二本とも抱えてきたのは年かさの男性の方。先日と同じように、ガラス越しに店内を覗き込んでから、意を決したように入って来た。


「すみません。先日傘をお借りした者です。あの時は大変助かりました。ありがとうございました」

「返却ありがとうございます」


 店番をしていた優が素早く受け取ると、男性は「店内を見せていただけますか?」と微笑んだ。

「もちろんです。ごゆっくりどうぞ」


 優がその場を離れると、男性は一つ一つ丁寧に眺めて歩く。時々すうっと息を吸っては、花の香も堪能しているようだった。


「男の一人暮らしじゃ、花を買うことなんて全然無くて」

 と、恥ずかしそうに笑った。

「わかります。俺も自分の部屋にはないです」

 優もにこやかにカミングアウトする。


「それに、仕事が忙しいと水やりすら難しいですよね」

「そうなんですよね。誰か贈る人でもいればいいんですけど……」

 淋しげに伏せた目が紫陽花の鉢植えを捉えると、ますます暗く沈んでいった。


「昔、言われたことがあるんです。優しいだけの人とは一緒に居られないって。紫陽花を見るとついつい思い出してしまって。彼女は私のことをと表現してくれたけど、本当は優柔不断で日和見主義な私の本質を見切っての言葉だったんじゃないかと。ずうっと気になりつつも、もう二十年も放置して生きてきてしまった。やっぱりだめですねぇ」


 力無く笑ってから、ハッとして慌てて付け加えた。


「すみません、余分なことを言ってしまいました」

「いえ、大丈夫です。記憶と花が結び付けられること、ありますよね」

「まあ、私には過ぎた女性で。当時も何で俺なんかに告白してくれたのかわからなかったんですけどね」


 高嶺の花……紫陽花の花言葉の一つだなと思い出して、優は花と彼の経験のシンクロニズムに不思議な気持ちになった。


 また余分なことを言ってしまったと恐縮する男性に笑顔を返す。

 ぐるりと店内を一周した男性は、手入れの要らないプリザーブドフラワーのフレームに決めた。


 花言葉

 薔薇(白)……心からの尊敬、純潔

 ガーベラ(レモンイエロー)……究極美、優しさ

 千日紅……色褪せない恋、恋の希望

 デンドロビウム……天性の華を持つ

 ジニア……いつまでも変わらぬ心、遠方の友を思う

 

 会計横の書籍コーナーへ何気なく送った視線が、面陳列された一冊の本に釘付けになった。


「これ……神尾玲奈って……」

「あ、その写真集はお勧めです。花の魅力を詰め込んだ素晴らしい写真集ですよ。見ているだけで癒やされると思います」

「そうか。やっぱり……」


 懐かしげな男性の様子に気づいた優。いつになく踏み込んだ質問をしてしまった。


「あの、お知り合いの方ですか?」


 しばし沈黙が続く。

 失敗した! と後悔し始めた頃、微かに震える声が静かに答えた。


「実は……さっき言っていた女性と同じ名前なんですよ。彼女も、一流のフォトグラファーになるって、熱い決意を秘めた目をしていました。そうか、遂に成し遂げたんですね。やっぱり凄い女性ひとだなぁ」


「素敵な方ですよ。ご自身の全てを掛けて向き合っていく、そんな写真を撮られる方です」


 力強くそう言った優を、驚いたように振り返った男性。


「彼女を知っているのですか?」

「ええ。先日も撮影にご一緒させていただきました」

「……」


 もの問いたげに瞳が揺れる。

 けれど、結局何も聞かぬまま男性は帰っていった。


 

 






 

 

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