Episode5 カモミールで仲直り
第18話 初喧嘩記念日
「はぁ、良かった。間に合った!」
閉店間際の『フルール・デュ・クール』へ駈け込んできたのは、会社帰りのサラリーマン男性。必死に走ってきたようで、優し気な面差しを歪めながら、はぁはぁと肩で荒い息をしている。
「安藤さん、いらっしゃい。今日は何の記念日でしたっけ?」
気軽な感じに声をかけた雅。
「大丈夫ですから、ゆっくり息を整えてください」
気遣いをみせる優。
顔見知りのこの男性客とは、開店当初からの付き合いだった。
「ありがとう」
そう言ってほーっと大きく息を吐き出しながらも、
「どうかしたんですか?」
直ぐに気づいた優の問いかけに、省吾は「実は……」と言いかけて、また「はぁ~」とため息をついた。
「残念ながら記念日じゃ無いんだ。敢えて名付けるなら『初喧嘩記念日』ってところだな」
しょぼんと肩を落とす。
「え!」
「安藤さんと奈美さんが喧嘩!」
優と雅が驚いて声をあげた。
「明日雪が降るんじゃないですか」
雅の率直な感想に、優が一睨み。
「かもなぁ~」
落ち込んでいてものんびりとした口調でそう言う省吾を見れば、ますます喧嘩の事実が信じられないと思う優と雅だった。
省吾はとても穏やかでマメな性格の好青年で、同じ職場の先輩である、
誕生日や、クリスマス、ホワイトデーはもちろんのこと、『つきあい始めて一ヶ月記念日』とか、『初キス記念日』とか、二人の愛の軌跡を祝う花束を重ねてきていたのだ。
その節目節目で花束を作ってきたのが、この『フルール・デュ・クール』。
たくさんの彼の気持ちを形づくるお手伝いをしてきたので、彼の性格も、お相手であり、今は妻となった奈美の大らかで明るい性格も知っている。
だから、省吾と奈美が喧嘩する姿は、簡単には想像できなかった。
「結婚して、そろそろ三ヶ月ですよね。普通の夫婦なら喧嘩の一つや二つしてもおかしくないと思います。でも、お二人は本当に仲が良いから、ちょっと想像できなくて。驚いてしまって、すみません」
そう言って頭を下げる優に、「僕もちょっとショックだったんだ」と頷いた省吾。
「僕たちは喧嘩しないと思っていたからさ。それなのに……ドライヤーの置き場所のことで喧嘩になったんだよ」
「え! ドライヤーの置き場所?!」
雅の声に省吾がまた頷く。
「そう。奈美は毎回洗面所の棚の中に仕舞えって言うんだ。でも、僕は毎日使うんだから、コンセントの横に掛けるところを作ろうって言ったんだよ。いわゆる、出しっぱなし収納って奴。で、どっちも譲らなくて喧嘩になった。こんな些細なことで」
ショックを隠しきれない様子で、ポツリと呟く。
「絶対喧嘩しないと思っていたのに……本当はさ、我慢できなかった自分にショックを受けているんだよね」
「大丈夫ですよ。安藤さん。今回だけですよ」
「そうそう。今回はちょっと疲れていたからですよ」
優と雅が必死で励ますと、省吾は青白い顔で微かに微笑んだ。
「雨降って地固まるって言いますからね。落ち込まないでくださいね」
男性三人が沈み込んでいるところへ、店の奥からひょこっと顔を出したのは優の義姉である舞美。柔らかな笑みを浮かべながら、そう言って省吾を慰めた。
今日は大きな受注をゲットしたと嬉しそうに帰って来て、そのまま奥で企画書を作成していたのだ。
「どんなに仲の良い夫婦でも、一緒に暮らし始めたら喧嘩の一つや二つしますよ。それは互いに甘えられている証拠だと思うんです。赤の他人に我儘なんて言わないですし、自分の意見を言うのだって、相手に分ってもらいたいと言う気持ちがあるからこそです。だから喧嘩することを恐れないで大丈夫ですよ」
結婚の先輩である舞美の言葉は説得力があった。不安定だった省吾の心も落ち着いてきたようで、顔に赤みが戻ってくる。そんな省吾とは対照的に、青白い顔になった優。
「……義姉さんも兄さんと喧嘩したことあるんだ」
「当たり前でしょ。諒さんと喧嘩して、一日中、口きかなかったこともあるわよ」
「知らなかった」
優のショックは倍増したようだが、舞美はふふふっと明るく笑う。
「根負けしたのは諒さんの方」
「……そりゃ、兄さんは義姉さんのこと大好きだったから耐えられなかったんだろう」
「あら、私だって諒さんのこと大好きよ。でも、私の方が根に持つタイプかな」
そう言って、またふふふっと笑った。そうして安藤に向き直ると、背中を押すように言葉を紡ぐ。
「安藤さん、きっと奥様も今頃後悔されていると思います。でもね、言いたいこと言えない方がもっと良くないから、喧嘩してもいいんです。その代わり、『ごめん』と『ありがとう』を忘れないようにすれば大丈夫だと思います。私も諒さんとその言葉で仲直りしましたから」
舞美の言葉を噛みしめて、省吾はようやく勇気を得たようだ。
「ありがとうございます。じゃあ、今日は『ごめんなさい』と伝える花束をお願いしようかな」
「お任せください。いいお花がありますからね」
舞美はそう言うと、手早く花束を作り始めた。
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