第17話 紫蘭の庭

 あの日以来、一週間に一回くらいの割合で、幸三は『フルール・デュ・クール』を訪れるようになっていた。

 

 亡き妻、靜江への言葉……還暦を過ぎて、ましてや亡くなっている妻に対して、こんな風に熱心に語りかけるなんて、俺も随分と拗らせた男だな。


 出会ったばかりの頃のドキドキした感覚が蘇ってくる。山岡は思わず自分で自分に呆れていた。

 だが、そんな生活は男一人住まいの幸三に、大きな生きがいをもたらしてもいた。


 毎朝起きて仏壇を掃除する。水を変えてご飯を備えて線香を手向ける。花が萎れたら散歩がてら『フルール・デュ・クール』へやって来て、優や雅と簡単な会話をする。

 たったそれだけのことだったが、驚くほど規則正しい生活に戻ったのだった。


 もしかしたら……

 

 山岡は思う。


 しょぼくれた俺を見かねて、あいつが導いてくれたのかもしれないな。


 

 久しぶりに孫たちの明るい声が響き、家の中の空気が熱を持つ。

 心配して訪ねてきた娘の香枝かえでが、驚きつつもほっと安堵の表情を浮かべた。

「良かった。安心したわ。お母さんが亡くなってお父さん一人で大丈夫かなって、凄く心配だったの。だって、お父さん家のことなんて何にもしたことなかったでしょ。全部お母さん任せで、輪ゴムの位置すらわかってなかったじゃない」

「まあ、そうだな」

「お花、生花をちゃんと活けているのね。本当はこの方がいいよね。お母さんお花大好きだったし」


 その言葉に、娘にもっと妻のことを聞かなければと思った。


 今までは娘に対しても、短い言葉しか発してこなかった。

『おはよう』、『ただいま』等の挨拶と、『ああ、そうだな』とか『それは止めなさい』とか『わかった』とかだけ。

 それは妻の静江が間に入って会話を繋いでくれていたからこそ成り立っていたわけで、亡くなったばかりの頃は、二人でどんな会話をすればよいのか戸惑ったほど、気持ちが離れてしまっていたのだ。


 家族のために―――なんて言っておきながら、とんだ本末顚倒な話だな。


「なあ」

 それでも直ぐにペラペラと話せるわけは無く、幸三は絞り出すように声をかけた。

「母さんの好きな花ってなんだったのかな?」

「お母さんの好きな花? そうね。花ならなんでも好きだと思うわよ。庭の手入れをしながら『和製ターシャ・テューダーみたいでしょ』ってご満悦だったからね」

「タ? なんだそれ?」

「ターシャ・テューダー。アメリカの絵本画家で、ガーデニングとかスローライフの本も出している人よ」

「へえ。そんな人がいるんだ」


 香枝が微かに眉間に皺を寄せる。


「お父さんさ、本当に何にも見ていなかったんだね。お母さんが一生懸命手入れしていた庭すらも」

「……」

 

 仕事人間だった自分への、反発や批判の言葉を飲み込んでいるだろう娘に、幸三はうなだれるしかなかった。


「でもさ、そうやってお父さんが身を粉にして働いてくれているお陰で、私も貴也もこうして大きくなれたし、お母さんもガーデニングを楽しめたんだからね。やっぱりお父さんのお陰だよ。そうお母さんが言っていた」


 その言葉に、思わず眼尻が熱くなった幸三は目をしばしばさせながら顔を上げた。

 先ほどまでの非難の色は消えて、にこにこと穏やかに笑っている香枝に、静江の顔が重なった。


 そんな風に言ってくれていたなんて―――


「俺には過ぎた妻と子ども達だな」


 照れくさくて尻つぼみになった言葉に被せるように香枝が言った。


「お父さん、庭に出てみようか」

「ああ」


 二人で庭に降り立つ。静江が亡くなってからずっとほっぽりっぱなしになっていた庭には、春の訪れと共に雑草も浸食し始めていた。

 かつては美しい花々で覆われていたであろう花壇は、無残に荒れ果ててしまっている。だが、玄関わきの一角に、ピンク紫の可愛らしい花房をつけた花が咲き乱れていることに気づいた。


「綺麗だな」

「ええ。これは紫蘭ね。そうそう、お母さん好きって言って増やしていたわよ。確か白いのとか、花の縁だけ紫のとか種類もあったと思う」

「そうか」

「春になると顔を出して可愛いんだって。一見何にもなくなってしまったように見えるところに、ちゃんと息づいていて春を待っているんだよねって言っていたわ」

「そうか」


 先ほどから同じ言葉を繰り返す父親を振り返って、香枝はふっと微笑んだ。


「母さんも、その、なんだな。花言葉とか気にしていたのかな?」

「花言葉! もちろんだよ。女性は割と好きだよ。私も気をつけて花を選んだりするし」

「そうか」


 また同じ言葉に戻ってしまった幸三。


 だが、香枝達が帰った後にこっそりとスマホで紫蘭の花言葉を調べた。


 花言葉

 紫蘭……変わらぬ愛、あなたを忘れない


 静江の声が聞こえたような気がして、幸三は密かに男泣きしたのだった。



 次の日、幸三は『フルール・デュ・クール』を訪れた。


 恥ずかしい気持ちを抑えながら優に頼む。


「その、なんだな。今日はだな、『ずっと好きだ』みたいな花言葉の花束を作ってもらえるかな? その、ちょっと人に贈ろうと思って」


 照れる幸三の様子から、全てを察したように頷く優。


「それでしたら、こんな花束はいかがでしょうか?」


 差し出されたのは、白いトルコキキョウとバラをメインに作られた清楚な花束。

 添えられた花言葉は幸三の気持ちを正に代弁していた。


 花言葉

 白いトルコキキョウ……永遠の愛、思いやり

 白いバラ……深い尊敬、相思相愛

 ピンクの胡蝶蘭……幸福が飛んでくる、あなたを愛しています

 カスミソウ……感謝、幸福

 アイビー……永遠の愛


 感心したように頷く幸三を見て、優も笑顔になった。



 山岡幸三は、その後も『フルール・デュ・クール』のお得意様だ。

 最近では仏壇の花だけでなく、庭を彩る鉢花も少しずつ購入していく。


 妻の残した庭を愛でること。

 生前一緒にできなかったことを一つ一つ叶えていく姿は、哀れとか切ないとかとは真逆の、穏やかな幸せに溢れている。


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