第41話 約束

『早く黄色く熟さないかな~』


 玄関先のレモンの木に、小さな緑の実が膨らみ始めている。

 一足先に出た千歳が、愛おしげに見つめながら呟いた。


『何で? レモンなんて酸っぱいから食えねえぞ』

『お兄ちゃんは食い意地張りすぎ。レモンは香りが最高なんだから。お菓子に使ったら幸せな味になるんだよ』


 大学の一限の授業がある日は、千歳と一緒に駅まで自転車を走らせた。

 夏の日差しは朝からギラギラと容赦無く照りつけて、直ぐに汗が吹き出してくる。早く電車に乗ってクーラーにあたりたい。いつもならその一心で必死でペダルを漕ぐのだが、その日は珍しく自転車を押しながら二人で話し続けた。

 期末テストが終わった開放感だったのかもしれない。


『お、なるほど。じゃあ、千歳が作ってくれるってことだな?』

『しょうがないなぁ。彼女のいないお兄ちゃんに作ってあげるよ、レモンのお菓子。黄色くなったらね』

『別に、モテないわけじゃないぞ。今は誰とも付き合う気が無いから断っているだけだ』


『強がりばっかり』と言って大笑いする千歳。

『強がりじゃない』むっとした顔で言い返す雅。


 でも、心の中では密かにデレデレしている。

 ここのところ互いに忙しかったから、すれ違いばかり。久しぶりに可愛い妹とゆっくり話せて嬉しかった。


『千歳はお菓子作りが上手だし作る事が好きなんだろ?』

『そうだね。勉強より好き』

『だったら、味見役がいたほうがいいよな』

『うーん。そうだね。彼氏ができるまでには上達したいから』

『彼氏ができるまでだって!?』


 カクリと肩を落とした雅を見て、千歳は勝ち誇ったように言う。


『もしかしたら、私の方が早いかもよ。彼氏ができるの』

 

 由々しき事態だ!


 雅の中に警報が鳴り響く。


『好きな人でもいるのか?』

『さあ、どうでしょう〜』

『俺が見定めてやるから、いつでも相談するんだぞ』

『うわっ、過保護』


 千歳は眉間に皺を寄せたが、直ぐに緩めて笑い出した。


『ちゃんと自分で見定めますー』


 自転車置場へ並べて停めて別々のホームへ。別れ際、千歳が言った。


『お兄ちゃんにも早くお菓子を作ってくれるような可愛い彼女ができるといいね。ま、それまでは私が作ってあげるから』


 ああ、やっぱり俺の妹は天使だ!


 わざと仏頂面に塗り替えて答えた。


『何だよ、その施しのような言い方は。でも、まあ、楽しみにしているからな。約束だぞ』

『うん。約束してあげる』


 バイバイと元気よく手を降ってかけて行った。



 そうだった。約束していたんだ……


 唐突に蘇った記憶に泣きそうになる。もう、果たせない約束だという事実が、胸を抉ってくる。


「もう、食べられないわね」


 ポツリと呟いた母親が、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。


「母さん……」

「黄色くなったら、レモンのお菓子を作ってくれるって言っていたのよ。それなのに……」

「母さんにも話していたんだ。レモンのお菓子のこと」

「ええ」

「食べ損ねちゃったね」

「ええ。だから、あの子が自殺なんてあり得ないのよ。約束を破るような子じゃないんだから。未来に向かってちゃん歩いていたんだから!」


 加害者の言葉に母がどれほど深く傷つけられていたのか、改めて知った。

 堰をきったように泣き出した母を抱えながら、共に泣く。


 泣いて泣いて、泣き疲れて―――


 千歳の死を、今初めて悲しむことができたと思った。

 恨みや憎しみに邪魔されることなく、純粋に千歳を思った。


 恋しくて寂しくて……この先も、悲しみが癒えることは絶対に無いだろう。


 

 ここ数日、雫は結局何も作れていなかった。

 キッチンで立ち尽くすばかり。


 千歳さんが作ろうと思っていたお菓子ってなんだろう?

 千歳さんだったら?


 会った事もない人の考えていることなど分かるはずもなく。

 未だに心にぽっかりと穴が空いているだろう雅の気持ちを考えたら、無責任なことは出来ない。


 私が作ったって嬉しく無いんじゃないかな。

 妹さんじゃなきゃ、嫌だよね。せっかくの思い出を穢してしまったら、申し訳ない。


 悶々と悩み続けていた。


 そんな雫の元へ、雅から連絡が入った。

『会って話したいことがあるんだけれど……』



『フルール・デュ・クール』の定休日。待ち合わせの喫茶店はワッフルが美味しいと評判のお店。緑溢れる店内も、居心地の良い空間だった。


「ごめん。急に呼び出したりして」

「いいえ、嬉しかったです」


 ポロリと本音が出てしまい真っ赤になった雫を、真剣な眼差しで見つめ返す雅。


「長い話になるけど、いいかな?」

「もちろんです。私も千歳さんのこと、知りたかったんです」

「優から雫ちゃんに話したって聞いて」

「ごめんなさい!」

「え!? 何が?」

「知らなかったとはいえ、私が勝手にレモンのお菓子を作るなんて言ったから、雅さんの負担になってしまったんじゃないかと思いまして。優さんにも気を使わせてしまいましたし」


 しょぼんと俯く雫を見て、何故か心が満たされていく雅。


 千歳に会った事もない雫ちゃんが、こんなに真剣に千歳の事を思ってくれているなんて、感謝しかないな。


 雫ちゃんに託したい!


 素直にそう思えた。


「……実は、俺もわからないんだ。千歳がレモンを使ってどんなお菓子を作ろうと思っていたのか。でも、知りたいと思ってしまうんだ。だから一緒に考えてくれるかな?」


 雫の瞳に決意を込めた強い光が宿る。


「是非、やらせてください!」

「ありがとう。そう言ってくれて」


 雅は静かに、千歳の事を語りだした。

 己の葛藤も激情も、包み隠さず話す。

 それは千歳の生をもう一度、心に刻みつけることのように思えた。


 涙しながら聞き終えた雫が「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げる。雅も深く頭を垂れて「ありがとう。よろしくお願いします」と返した。




 雫の精一杯を込めて作り上げたお菓子は二つ。


『香りが最高』と言っていた千歳の言葉と年齢を考えて、シンプルで優しい味を作り出すことに全力を注ごうと考えて決めた。


 砂糖にレモンの香付けをしてから作る、ふんわりと甘いマドレーヌ。

 ぷるぷるちゅるんと舌の上で弾むレモンゼリー。

 中学生でも気軽にチャレンジできるレシピだ。


「「美味しい!」」

 

 優と舞美が幸せそうな顔になる。


「……」


 眼鏡を外し目頭を抑える雅。


 何故だろう……とても懐かしい味だな。


 口の中に広がる甘酸っぱい香り。

 千歳と再会できたような、不思議な充足感に包まれる。


 また千歳の声が響いてきた。

『お菓子を作ってくれるような彼女ができるといいね』


 そうだな。そろそろ俺も、彼女が欲しいな。


『やっとそう言ってくれた! もう、お兄ちゃんは素直じゃないんだから。私がどんだけ心配したと思っているのよ』


 ああ、そうだよな。千歳にもいっぱい心配かけたよな。


 ごめん……


『分かってる。それに、私も約束を守れてほっとしたよ』


 次の瞬間、千歳の幻影はいたずらっぽい笑みになった。


『お兄ちゃんに作ってあげるのは、これで最後だよ。私だって、これからは彼氏のために作るんだからね』


 そうだよな。いつまでも、不甲斐ない兄貴になんか付き合っていられねぇよな。


 千歳の笑顔が揺らいで、雅は一気に現実に引き戻された。


 

 心配そうに見上げる雫の瞳と出会って、温かいものが込み上がってくる。


「雫ちゃん、ありがとう。千歳が作りたかったお菓子を作ってくれて」


 雫の笑顔も花開いた。ポロリと一粒の雫を宿しながら―――



 花言葉

 レモン(花)……心から誰かを恋しく想う、誠実な愛、香気

 レモン(実)……熱意、熱情、陽気な考え


 



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