第40話 妹の死
あの日、千歳が死んだ日も、雅は夜遅くまでの居酒屋バイトに勤しんでいた。だから、レジで受けた店の電話から母親の声がした時は驚いた。
「すみません。そちらでバイトしている堀内雅の母ですが」
「え!? 母さん?」
「雅! 雅なの!」
「そうだけど、なんだよ。店まで電話してきて。今日は遅くなるって」
「千歳が、千歳が」
どっと湧き上がる客の声で、受話器の向こうの声は簡単にかき消される。
「え? 何? 聞こえなかった。もう一度言って」
「千歳が交通事故にあったって」
交通事故?
ネットではよく目にする言葉なのに、その意味を理解する事を頭が
拒絶する。
「母さん、何を言って」
「警察から連絡があって、病院に搬送されたんだけど……」
その先は言葉にならなかった。叫ぶような泣き声に変わる。
そこからは、何をどうして病院へ向かったか覚えていない。ただ、再会した千歳は、もう白白とした蝋人形のように動かなくなっていた。
どんな姿を見ても諦められるわけがない。彼女の肩を揺さぶろうとして阻まれる。
未だ拭いきれていない彼女の血は赤くて綺麗なままなのに、勝手に死んだことになんかするな!
生きている。まだ千歳は生きている。
「千歳! 駄目だ! 帰って来い!」
悲しみよりも怒りのほうが大きかった。
警察からの最初の説明では、交差点での出会い頭の事故とだけ言われた。
中学三年生の千歳は受験勉強のために塾に通っていた。秋風が吹く頃になるともう帰り道は真っ暗なので、急いで自転車を漕いでいたはずだ。
事故が起きたのは、家の近くの信号機のない横断歩道だった。
加害者の人権ってやつなのだろうか。千歳を跳ね飛ばした運転手は、一度謝罪の電話があったきり、後は保険会社に任せきりだった。
その上、供述内容まで覆したのだ。
自分は悪くない。千歳が飛び込んできたのだと言い始めた。
これは遺族にとって二重の苦しみになった。
そんなはずはない!
千歳が自殺を考えていたなんてあり得ない!
精一杯生きようとしていた若い命を摘み取っておきながら、彼女の尊厳すら踏みにじるような言葉に、怒りが収まらなかった。
だがその一方で、完全には否定できない気持ちが消せなくなってしまった。
忙しい受験勉強。学校での交友関係。
千歳が何の悩みもなく過ごしていたとは考えにくい。それを、誰にも相談できずにいたかもしれない。
当時の雅は大学とバイトとサークル活動に明け暮れていて、千歳とじっくり話す時間はほとんど無かった。
もし、本当に悩んでいたとしたら。
将来への不安を抱えていたとしたら。
そのせいで疲れて注意散漫になっていて、車に気づかずに飛び出してしまったとしたら。
とめどなく湧き上がる、もしかしたらが止められなくなった。
警察の捜査のお陰で、物理的証拠から加害男性の不注意事故と結論付けられ、刑事裁判が開かれた。だが、その内容が詳しく遺族に説明されることは無い。
暗く悶々とした日々の中、呪詛の言葉を繰り返す。
遂に我慢の限界を超えた。
弁護士に依頼して、被害者参加制度を申請した。
両親の代わりに被告人質問に立つ。
怒りのままに駆け寄って、あいつを殴り殺してしまいたい。その衝動を抑えられずに拳を握りしめた。
だが、それをしてしまったら、千歳の死を貶めてしまう。
今俺がすべきことは、千歳の最期がいかに理不尽なものだったのかを、この場できちんと証明することだ!
必死に己を保ち、冷徹に加害者を追い詰めた。
裁判で判決が出た頃には、千歳の死から既に七ヶ月が経っていた。どんなに重い刑罰が科されたとしても、怒りと恨みで塗り固められた家族の心が晴れることは無いが、一つの区切りがついたことは確かだった。
何も考えることができなくなった。
今度は悲しみよりも喪失感で空っぽだった。
千歳が居ない家の中は寒くて暗くてただの箱でしかなかった。
昼夜の区別なくベッドに横たわり、一日中カーテンを閉め切って過ごす。明るい光は眩しすぎたから。
小さく丸まって自分の身体を抱え込んでいても、麻痺した肌感覚では何も感じない。
呼吸は単なる生化学反応に過ぎなかった。
いつの間にか、季節は一巡りしていた―――
ある日、家の電話が鳴り響いた。いつもなら母親が直ぐに取るのに、今日はいつまでも鳴り続いている。
そういえば、母さん、さっき買い物に行って来ると言っていたっけ。
朦朧としながらも記憶を引き出した。その瞬間、どっと冷や汗が吹き出た。
電話! あの時と同じだ。
今度は母さんに何かあったらどうする?
ガバリと布団を剥ぐと、もつれる足を懸命に動かして家電に辿り着いた。
「もしもし」
「あ、雅。良かった」
母親の声を聞いて、不覚にも涙が零れ落ちた。
良かった。無事だった。
無事ではあったが、動けなくなっていた。転倒して痛くて歩け無いから迎えに来て欲しいと言う。
外になんか出たくない。でも、迎えにいかなければ困るだろうな。
顔を洗い髭を剃る。のろのろと服を着替えて、家の鍵を持って外に出た。
季節は秋。それでも、昼間の太陽の陽射しは強い。一歩家の外に出た瞬間、くらりと頭が揺れてしゃがみ込んだ。
くそっ。眩しすぎる!
目を細めて立ち上がると、一歩ずつ踏みしめるように歩み始めた。
近所のスーパーまでの道のりが異様に長く感じた。萎えきった体は、鉛のように重い。
こんなんじゃ、迎えに行っても何の役にもたたねぇな。
店先に佇む母が見えた。しょんぼりと肩を落とす姿が、弱々しくて小さくて。
ああ……そうだよな。
俺なんかより、もっとずっと辛かったはずだ。最愛の娘を亡くし、俺は無気力に引きこもっている。本当は母さんの方が泣き暮らしたいだろうに、それも出来ないで追い詰められているんだ。
申し訳なくなって、目頭が熱くなる。
ぐっと背筋を伸ばして、母に声を掛けた。
「母さん、待たせてごめん」
「雅……」
母の目がうるりと揺らめく。
「来てくれたのね。ありがとう」
「荷物もらうよ。肩につかまれば歩ける? それとも病院行った方がいいかな」
「大丈夫。転んだ時に捻っちゃって。肩を貸してくれる?」
「ああ」
ゆっくり、ゆっくりと並んで歩きながら気づく。
ああ、自転車とか車で来てあげれば良かったんだ。
でも、そのどちらもが千歳を思い出させた。誰かの命を奪う凶器でもあるから、恐ろしくて使う気にもなれなかったのだ。
乗り越え無いといけないな……
これからは、親孝行しなければ。そう思ったら、少し生きる気力が戻った気がした。
ようやく玄関まで辿り着いて鍵を開けていると、母が小さく「あっ」と声をあげた。
「どうした? やっぱり痛い?」
「黄色くなっているわ」
「え、何?」
「レモンが黄色くなっているの」
「……」
突然、雅の脳裏に千歳の声が響いてきた。
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