第35話 大切な一人娘
今日は珍しく出先から直帰することができた。
だから会社帰りに『フルール・デュ・クール』に寄ることができたのだが、気合を入れ過ぎて大分時間をとってしまった。
明るいうちに家に帰るという目論見が外れてしまったなと苦笑いする高梨。
「ただいま」
「お帰りなさい」
玄関先でさり気なく辺りを見回していると、妻の
「小百合なら、お友達と一緒に過ごしてから帰ってくるから、まだまだね」
「そ、そうなのか。最近遅いのか」
「そういう年頃だから、あんまり口うるさくは言わないようにしているのよ。連絡が入ったら駅へ迎えに行くから大丈夫よ」
「そうか……」
一緒に夕飯を食べられると期待していたので、がっくりと肩を落とした。
高梨夫妻にとって、小百合は目の中に入れても痛くないほど可愛くて大切な娘だ。
大学のサークルの先輩後輩だった二人は、卒業後無事ゴールインした、おしどりカップルだった。
ところが、子宝にはなかなか恵まれなかった。二人とも子供が大好きだったので、直ぐにでも欲しいと思っていたのだが、命に関することばかりは人間ごときの思い通りにはいかないものだ。
後から結婚した知り合いから、『生まれました』の年賀状が届く度、妻の美雪の顔が沈む。
周りからの「お子さんは?」という悪意無き問いかけに息苦しくなる。
悩みに悩んだ末、二人で相談をして不妊治療に通う事にした。
だが、治療をしたら簡単に授かるというものでもない。
ここからも試練の連続だった。
痛みを伴う検査。心を抉るような結果。高額な治療費。一か月近い周期を経て期待を膨らませても、生理がくれば振り出しに戻ってしまう。
体と共に心も消耗していく治療だった。
授からないままズルズルと続けていても焦燥感が募る。
けれど、治療をやめることは子どもをあきらめることと同義のような気がして踏ん切りもつかない。
後一回、これを最後ともう一回……
結局ズルズルと繰り返す日々。
そんなある日、やつれて笑えなくなっている美雪に気づいた。
雅也は決断を下す時だと思った。
そして、その決断の責任は自分が負うと。
「俺は二人でも幸せだよ」と言った雅也に、ぽろぽろと涙を流しながら頷いた美雪。
「私も……」
そう言って無理やり断ち切ったような笑顔を見せた。
二人はそれまで治療のために我慢していた旅行を再開した。
温かな湯につかりに行く近場の旅。久しぶりにほっと体の力が抜けて、リラックスできた旅だった。
それが功を要したのかはわからないが、思いがけず自然妊娠することができたのだ。
『授かりもの』……その言葉をしみじみと実感した。
念願叶って家族に迎えることができた小百合が可愛くて仕方なかった。
どんなに仕事が忙しくても、家に帰れば小百合の元に直行する。
三時間おきの授乳、夜泣きでふらふらしている美雪の負担を少しでも軽くしたくて、できることは手伝った。
幸せな発見もいっぱいだった。
小百合が笑った。小百合が寝返りをうった。小百合がお座りできた。
一つ一つ段階を登る度、スマホを構えて写真に収めまくった。
だが、子育ては心配事の連続でもある。
突発的な熱であたふたしたり、怪我で病院に駆け込んだり。
学校でお友達と上手くやれるのか。
勉強についていかれるのか。
ついつい先の先まで心配してしまう。
今もまた、新たな心配が胸を占めている。
小百合は可愛いからな。夜遅くなると危ないじゃないか。
じれじれとしながら帰りを待つ。
と同時に、こんな過保護な親だと小百合に嫌われてしまうかもしれないと落ち込む。
発表会……見に来ないで欲しいって言われたしなぁ。
またまたどよんとした顔になった雅也を、美雪が温かな眼差しで見つめていた。
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