第15話 無言の闇
ガチャリと鍵を開けて、薄暗い室内へ入る。
つい、癖で「ただいま」と声をかけてしまい、無言の闇に飲み込まれそうになった。
妻はおとなしい女性だったが、どんなに遅くなっても帰れば必ず「おかえり」と声をかけてくれた。
その後、二人で多くを語り合うことは無かったが、そこに居るというだけで無意識のうちに感じていた安心感が大きかったのだと、遅まきながら気づく。
先ほど『フルール・デュ・クール』で胡蝶蘭の花束を買った男性は、名を
還暦を過ぎてからも働き続けて、六十五を過ぎてようやく完全リタイアをしたのが二年前のこと。娘と息子もそれぞれ結婚して孫も生まれ、これからは夫婦水入らずでのんびり過ごそうと思っていた矢先に、妻の静江に癌が見つかった。
進行性の癌は瞬く間に静江の体力を奪い、命を奪い去って逝ってしまった。
幸三はいわゆる企業戦士だった。
会社のため、家族のために必死で仕事をこなしてきた。
朝から晩まで会社勤め。休日出勤も厭わず、ゴルフの接待も当たり前のようにこなしていた。そうするのが当たり前と思っていたし、実際にそうしなければ家族を養うことは難しかっただろう。
愚痴を言うのは恥と思ってきたから、家で会社のことは一切話さなかった。
それを誇りにすら思っていた。
妻もそれは分っていたと思う。だから、同じように文句ひとつ言わずに、一人で家庭を切り盛りしてくれていた。子育ても、祖父母の世話も、近所づきあいも。
だがきっと、それはストレスフルな日常だったに違いない。
愚痴を言わない代わりに、愚痴も聞いてやらない。
それは、とても一方的な態度だったと今ならわかる。
自分だけが外で大変な思いをしていると勘違いしていたと悔やんだ。
もっと労っていれば、こんなに早く逝くことも無かったかもしれないのに。
定年後は、二人だけの静かな時間を迎えられると思っていた。
今まで何もできなかった分、二人で話したり旅行に行ったりしよう。
それなのに……
今更、一緒にできることなんて何もないのだ。
男性は、仏壇の花立から造花を外した。
綺麗に洗って水をはる。先ほど購入した花束を活けようとして、テープで止められたカードに気づいた。
花言葉
白の胡蝶蘭……幸福が飛んでくる、清純
カランコエ……たくさんの小さな思い出、幸福を告げる、貴方を守る
カスミソウ……感謝、幸福
これは……
花言葉と言うものがあることは、幸三も知っていた。だが、それを身近に感じたことは無かったので、驚きつつ読む。
面白い花屋だな。
そう呟くと、カードをテーブルに置いたまま、花を仏壇へと飾った。
造花とは違う、生き生きとした艶を放つ花々のお陰で、明るく華やいだ気がする。
あいつも喜んでくれるかな。
線香をあげ、チーンと盛大に叩くと手を合わせた。
もう一度花に目をやる。先ほどのカードを持って来て、今度はそれぞれの花と花の名前、花言葉を合わせながら読み直す。
幸福が飛んでくる……きっと、いつもそう思いながら、家族のために頑張ってくれていたんだろうな。
でもそこに、彼女の幸せもちゃんと含まれていたのだろうか?
家族のために生きて、余生を楽しむ間も無く死んでしまっただろう妻。
やり残した事もいっぱいあっただろうに。
お前にも夢があっただろうに。
後悔しているのは俺じゃないな。
お前の方が、今頃天国でいっぱい悔しい思いをしているんだろうな。
そう思ったが、妻の静江が何を考えていたのか。何をしたいと思っていたのか。
何も思いつけなかった。
夫婦として長い年月一緒に暮らして来たというのに。
情けないことだな。
あいつの好きな花が分かれば、あいつが考えていたこともわかるのかな。
そう考えたところで、仏壇の花もこれからは頻繁に変えてあげようと思い立つ。
口下手な幸三が、物言わなくなった妻へ気持ちを伝えるすべは、もうこれしか残っていないのだから。
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