第3話 苔珊瑚(コケサンゴ)

「良かったら、これ育ててみませんか?」

「え?」


 戻ってきたみやびは、小さな鉢植えを差し出した。

 小さなハートの形の葉がたくさんついて可愛らしい見た目だけれど、一体何の鉢なのかわからない。突然のことに驚いている雫を真っ直ぐに見つめて、雅は説明を始めた。

「コケサンゴって言うんです。実は繊細なので、育てるの難しいんですけど、あなたならできそうな気がして」

「え!」


「雅、お前お客様にいきなり失礼だろう」

 奥からゆうと呼ばれた男性が呆れたように声をかけてきた。

「お前はまた、直ぐにお節介を焼く」

 

 ぶつぶつと文句を言う優をスルーして、雅が重ねて言ってきた。

「あ、まあ、無理にとは言えないんだけれど、でもなんとなく……」

「あの! どうしてこれを私にって思ったんですか?」

 あまりのことに声を無くしていた雫だったが、これだけはどうしても聞きたいと意を決して口を開く。


「うーん。なんだろうな。昔の俺と同じ顔していたからかな」

「同じ……顔」

「まあね。あ、すみません。お客様なのに、ため口きいて」

 照れ隠しのように頭に手をやって笑った顔があまりにも優しくて、雫はドキリとして、次に泣きそうな気持ちになった。


 私ももう一度、こんな風に笑いたい……



 結局、その鉢植えをもらってきてしまった。

 うまく育てられる自信も無いのに。

 

 名前は『苔珊瑚コケサンゴ』というらしい。

 簡単な育て方の注意が書かれたメモが添えられている。それによると、直射日光は葉焼けを起こすからだめだけれど、光が無いのも苦手。半日蔭が良い。水をあげ過ぎてもだめだけれど、乾燥も苦手。とても繊細で、マメに世話をしないといけないらしい。


 まあ、私、今暇だから。

 できる……と思うけれど。


 いや、そんな簡単なことでは無い。今までしんどくて寝てばかりいた体。

 でもこれからは、この子のためにがんばって起きないと。そんな小さな使命感のようなものが生まれた。それを重く感じなかったことを不思議に思う。

 そういう『やらなければならないこと』の重圧に耐えかねて、ずっと避けてきていたのに。


 何気なくメモの後ろを返して驚いた。

 花言葉が書かれている。


 コケサンゴの花言葉は、『私をそっとしておいてください』


 まさに、私の気持ち―――だった。


 ままならない自分自身を歯がゆく思っていた雫。周りの人の心配もプレッシャーになっていた。


 周りの人に心配される度落ち込んだ。

 応えられなくて申し訳ないという罪悪感。

 いつまでもぐずぐずしている情けない奴と思われているかもしれないという劣等感。


 辛くて痛くて動けなくなっているのに、結局周りの人の思惑ばかり気にする羽目に。


 痛いって、辛いって。

 そんな自分の感覚を、ありのままに受け止めることができずにいた。


 そうだわ。

 もうちょっと、自分の気持ちを大切にしたって良いんだわ……


 ちょっと待っていて欲しい。

 これ以上焦らせないで欲しい。

 お願いだから、私に私を感じさせて!


 そして、再び浮上できるまで『そっと信じて待っていて欲しい』……


 それが雫の本当の心の声。


 この気持ち、あの雅って男性ひとも持っていたことがあったのかな……


 私があの人に感じた気持ちは、同志を見つけた気持ちだったのかもしれない。

 でも、きっと彼は一山超えて、今あそこで頑張っているんだと思った。

 今まで信じられなかった未来を、彼が身をもって示してくれているような気がしたのだった。


 私も自分のこれからを見てみたい―――



 それにしても、こんな繊細な植物があるなんて知らなかったわ。

 厳しい自然界では弱い植物が生き残ることは大変なはず。それでもこうやって命を繋いでこの世に存在し続けているなんて。

 なんか、ちょっと勇気がもらえるかも。


 今までは、みんなと同じようにできない自分が情けなかった。

 前を向いて軽やかに進んでいくみんなが羨ましかった。


 でも、今はちょっと違う気持ちが芽生えつつある。


 この世に完璧な人なんていない。

 みんな同じ速度で歩けるわけでも無い。


 私は私の速度で。私らしく。

 小さな一歩だっていいんだから。


 そんなふうに、ようやく思えたのだった。



 雫が去った店先。後姿をずっと見送っていた雅がポツリと呟く。

千歳ちとせと同い年くらいかな」

「……多分」

「大丈夫かな」


「今更何を言っている。勝手に花を押し付けておいて。でも、大丈夫だと思うよ」

「……そう思うか?」

「彼女は迷惑と思っていなかった。少なくとも、俺はそう感じた」

「良かった」

「だから大丈夫だよ」


 雅は遠い眼差しから引き戻されたように、優をしっかりと見つめた。

 優がもう一度「大丈夫」と言いながら頷く。


「サンクス」

「おお」


 二人はまた仕事へと戻っていった。



 一週間後、雫はコケサンゴの写真を収めた携帯と、手焼きのクッキーを持ってあの花屋を尋ねた。

 店頭に並んだ鉢を覗いてから、ガラス越しに店内を伺う。

 優も雅も忙しそうに花束を作っているところだった。


「あ、あの……」

 小さな声で言いながら、そうっと店内へ体を入れると、「「いらっしゃいませ」」と二色の声に迎えられる。雫に気づいた雅の瞳が、パアっと輝いた。


「あ、いらっしゃい。あの……この間は急に押し付けちゃって、すみませんでした」

「いえ、大丈夫です。寧ろ、ありがとうございました」

 しどろもどろになりながらも、雫は一生懸命感謝の気持ちを伝えた。

「良かった」

 ほっとしたような雅の顔を見て、雫も釣られたように緊張を緩める。


「コケサンゴ、元気?」

「はい。なんとか、今のところは枯らさずに育てられています」

「そうか。良かった。そのうちオレンジの実をつけるよ」

「そうなったら可愛いでしょうね」

「そう、可愛いよ」


 にっこり笑った雅の目が、雫の手元に移る。視線を感じた雫は慌てて言った。


「あの、この間のお礼にクッキーを焼いてきたんです。良かったら」

「え、嬉しい」

「お礼って、雅の完全なるお節介、押し付けなのに。悪いね」

 優が無邪気に喜んでいる雅を一睨み。そんなことは物ともせず、雅は優に悪戯っぽい視線を返すと、黒のカフェエプロンで軽く手を拭いて、雫の広げたクッキーの袋に突っ込んだ。

 二つ取って一つを優に渡す。

「「いただきます」」

 と言って、ホイッと口に放り込んだ。


 まあるいバタークッキーがホロホロと解け、じんわりと甘みと塩味が広がっていく。


「これ、美味しいね。時々持ってきてよ」

「いいんですか!」

「あ、お前ずうずうし過ぎ」

「だって美味しいから」

「確かに美味しいけど」


 もぐもぐと口を動かしながら言い合う二人の掛け合いは、雫の心を和らげ次の一歩に繋げてくれた。


「そう言っていただけて嬉しいです。また持ってきます。なんなら何かリクエストがあったらがんばります」 

 胸元で握り締めた手に力を込めた雫。


 その顔には自然と柔らかな笑みが広がった。


 雅と優が気づいて会話を止める。


「名前。君の名前を教えて欲しいな」

「お前、名前も知らずにコケサンゴ押し付けたり、クッキーリクエストしたりしていたのか」

「別にいいだろう。もう知り合いだし」


 またまた始まった二人を見て、今度は声まであげて雫が笑った。


「雫です。花本雫はなもとしずく。これからよろしくお願いします」





 

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