第2話 もう一度

 桜を見に行ってから一週間。

 雫は未だ部屋の中に籠っていたが、少しだけ変化があった。

 カーテンをちゃんと開けるようになったこと。


 今までは太陽の光が無駄に眩しく感じて、開けないで過ごしてしまう日が多かった。

 でもあの日以来、朝にはきちんと開けて光を入れるようにしている。


 桜並木も、花屋の鉢花も、太陽が無ければ生きていかれない。

 だったら私も、太陽を浴びないと生きていかれないのかもしれない。


 雫はそう思い始めた自分に、また驚く。


 生きたい―――

 

 いや違う。『生かされたい』と思っているんだ。

 太陽の力に。

 あの日見た桜の木のように。


 生きてどうしようと思っているのか。

 それは未だわからない。

 未来とか希望とか、そんなものは絵空事と言う気持ちも消えていない。

 心の振れ幅が大きすぎて、嵐の中で藻掻いているのも変わらない。


 それでも、それでいいのかもしれないと、諦めにも似た気持ちが湧き上がってきた。

 

 今までは嵐の中で踏ん張っていたからしんどかったんだ。

 もみくちゃにされるのは怖くて辛い。痛くて死にそうになる。だから飛ばされないようにと必死になる。

 やがて、踏ん張る力も保てなくなってきて……飛ばされるくらいなら、いっそ先に死んでしまえとさえ思ってしまった。


 でも、あの日見た桜の花弁は、風に翻弄されることを厭うてはいなかった―――


 風に身を任せてしまったら……どこに飛ばされるかはわからないけれど、きっと空高く舞い上がって違う地まで行けるに違いない。

 そうして嵐が通り過ぎたら、また青空が広がるはず。


 ほんの少しだけ軽くなった心を奮い立たせて、もう一度桜並木へ向かうことにした。

 桜の舞をもう一目だけ見たいから……そんな風に自分に言い聞かせて。


 実はもう一つ、心の奥底に顔を出した想いがあった。


 もう一度、眼鏡の彼に会いたい……


 その想いはどのようなものなのか。

 すがる思いか、一目惚れか。

 自分でも良く分からないけれど、生きる原動力の一つとなったのは確か。

 


 並木道の終わりに、あの花屋が現れた。今日も店先には色とりどりの花が並べられている。できる限りさり気なく、店の前で立ち止まり花に目をやった。

 カップに入れられた園芸用の花々が生き生きとしている。他の店だと萎れかけていることもあるのに、ここの花は瑞々しい。きっと普段から丁寧に世話されているのだろう。


 改めて店名を探せば、小さな黒板に『フルール・デュ・クール』と書かれている。

 どういう意味かはわからないけれど、おしゃれな響きだなと思った。


 今日はあの男性はいないのかなと思いながら花を見つめていると、中から声がした。

「いらっしゃいませ」

 あれ、でもこの間の声と違う。この間の男性ひとは、とても柔らかなテナーボイスだった。今日は、もう少し低くて深みのある声。

 ふと顔を上げると、黒いサラサラストレートの髪を揺らしながら男性がこちらへやってきた。


「何かお探しですか?」

「い、いえ、あの」


 やっぱり、この間の男性ひとと違う。

 雫に緊張が走った。体を強張らせ、表情が曇る。それに気づいたのかはわからないが、男性は一歩手前で立ち止まり、「ごゆっくり」と言ってまた店の中へと戻っていった。


 ほうっとため息をついて立ち上がる。


 私、何やっているんだろう。買いもしないのに覗いていたら、邪魔だよね。


 とぼとぼと歩き出したところへ、店の前に滑り込んで来た白い軽バンが停車した。

 運転席から降りてきたのは、あの日の眼鏡の男性。

 アッと言う視線の動きから、雫のことを覚えていてくれたようだ。

 またもや緊張が走り、その場に固まったように動けなくなった。


「もしかして、この間の?」

 眼鏡の奥の瞳がきらりとして、あの時と同じ柔らかな笑顔を湛えていた。

 

 雫はやっとの思いで首を縦に振る。


「また来てくださったんですね。いらっしゃいませ」


 そう言いながらも男性はてきぱきと動いて、荷台から仕入れてきたらしき花のバケツを下ろし始めた。邪魔にならないように帰りかける雫の背中に声がかかる。

「あ、お気遣いなく。心ゆくまで見ていってください。花って見ているだけで癒されますよね。別に買わなくて構わないので」

 わざわざそう言ってくれたのを無下にすることもできず、雫は足を止めた。


「ごゆっくり」

 そう言いながら彼は荷物を運び始める。そこへ先ほどのサラサラ黒髪の男性も加わって、目の前の花はどんどん店内へと吸い込まれていった。 


ゆう、今日は鉢植えのチューリップが手に入ったぜ。いい感じの蕾」

みやび、自分の好みで増やすな」

「はいはい」

 

 二人の様子は仲が良さそうで、減らず口をたたきながらも息の合った仕事ぶりだ。

 我を忘れたようにぼーっと見つめていた雫に気づいて、雅と呼ばれた男性が再び声をかけてくれた。


「そうだ! いいのがあるからちょっと待っていてください。先に車を車庫に入れてきてしまうので」

 そう言って運転席に乗り込んだ。

 


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