第八節 大昇〈食屍鬼(グール)〉前篇 結び

大昇〈食屍鬼(グール)〉前篇 結び その一

 一九一九年七月 帝都麴町区こうじまちく 富士見町ふじみちょう





 重井沢への出発を三日後に控えた今日、よいの口から呑み屋に顔を出したのは宗像である。


 今年の五月に帝都へ越して来たばかりの宗像だったが、青森への旅行時以外は三日と開けず通い詰めた事で、ここの店主とはすっかり顔馴染みの間柄になっていた。


「いらっしゃい!

 お、宗像先生かい。

 今日は早いね~。

 もしかして、明日の朝早いのかい?」


「いやいや、早いのは三日後やねん。

 ちょっと出張でな。

 ひや胡瓜きゅうり胡麻和ごまあえ頼むわ」


「かしこまりました。

 冷一丁と胡瓜の胡麻和え一丁ね!」


 店主が注文の品を持って来るなり、さっそく酒とさかなを呷る宗像。


「かぁぁぁ美味い。

 こんな蒸し暑い日の肴は胡瓜に限るで」


「先生、出張はどこ行くんだい?」


「それが、詳しい事は言われへんのよ。

 そやな、この帝都よりは涼しいとこや」


「秘密の多い御仁だね、まったく」


 宗像の秘密主義にもう慣れっこの店主は、行き先を詮索するなどと云う野暮な真似はしない。


 まだつけ払いが一般的だったこの時代に、即金で支払ってくれる宗像は格好の上客である。

 そんな御得意の機嫌を損ねるような馬鹿をする筈がなかった。


 きょうが乗って来た宗像は、どんどん注文を追加する。


「冷もう一つと刺身もくれ。

 今日の魚はなんや?」


「はいよっ!

 今日はね~、えぼだい(疣鯛いぼだい)と障泥烏賊あおりいかがお勧めだ。

 あと、久しぶりにいい鞘巻さいまき車海老くるまえび稚海老ちえび)が入ったよ!」


「よっしゃ!

 えぼだいと障泥烏賊は刺身で、鞘巻は天ぷらにしてくれ」


 三日後には重井沢へと出発しなければならない宗像は、今日たっぷりと海の幸を食い溜めしておく事に決めたらしい。





 夜が更けると酔いも回る。

 宗像の隣席には、いつの間にか新客が居た。


 その客は黒尽くめの外套コートを羽織り、被っている帽子も黒の紳士帽子トップハットと云う服装。

 完全に真冬の装いだが、宗像を始めとした客や店員達は、何ら違和感を抱いていない。


 その黒尽くめの客が宗像に話し掛ける。


「貴方は若しや、宗像 藤白とうはく先生ではありませんか?」


「う~、そうです。

 私がぁ、変な宗像です。

 ……うっぷ。

 ワイに、何の用や?」


 宗像は速調ハイペースで呑んでいた為、既に泥酔している。


 黒尽くめの客は質問を続けた。


「先生は新種の粘菌を発見なされたとか。

 宜しかったら、御話など聴かせて頂ければと……」


「そ~れす……ワイは~、新種の粘菌を発見したのです。

 う~ん……これです!」


 宗像は酔っぱらって前後不覚になってしまい、粘菌の標本入れとして使っている煙草の空き箱を出してしまった。

 九頭竜会の秘匿事項の筈が、どこの誰とも知れぬ者に御開帳ごかいちょうしてしまう。


「先生、この粘菌の名前は何と云うのですか?」


「名前?

 なーまーえーはー!

 まだない……」


「では先生、ここで遭ったのも何かの縁ですし、私に名付けさせては頂けませんか?

 御礼と云っては何ですが、ここの御代は立て替えさせて頂きますので……」


「うむ!

 あんたの心掛けに免じてっ、ほまれある名付け親になって貰うぅ。

 ……むにゃむにゃ……」


 呑み代の立て替えと云う甘い蜜に吸い寄せられた宗像は、大した警戒心も抱かずに了承してしまう。


 黒尽くめの客が粘菌標本を凝視する姿を見た宗像は、薄らと忍び寄る不安感にさいなまれた。


 しかし白河しらかわの誘惑にはどうしても勝てず、とうとう夜船よふねいでしまう……。





「……先生、宗像先生、もう店仕舞いだよ!

 さあ、起きた起きた!」


「……ぅうう、う~~~ん。

 ん?

 なんや、もう朝かいな……」


「なに寝ぼけてんだい先生、まだ夜中だよ。

 片付けるからどいとくれ」


 冷酒の呑み過ぎが祟ったのか、つい寝入ってしまった宗像。


 懐から財布を取り出し勘定を済ませようとするが、店主が手を振って制する。


「大丈夫だよ先生。

 もう勘定は済んでる。

 先生のお友達はカネ払いが良くて助かるよ」


「お友達……?

 誰やったかいな……。

 親仁おやじさん、どないな奴やったか憶えてる?」


「いや~憶えてないね~。

 仕事柄、物覚えはいい筈なんだけど。

 よっぽど特徴の無い人だったかのか、どうもハッキリしねえんだよなあ……」


 そう零した店主は、暖簾のれんを下ろす為に入り口を開ける。

 すると、一匹の白猫が店内へ飛び込んで来た。


「コラッ、この泥棒猫!

 早く出て行きやがれ!」


 鮮魚を扱う店に野良猫は大敵である。


 店主が暖簾をこんがわりにして追い回すが、華麗な跳譜ステップで躱す白猫。

 数度の応酬の後、白猫は客席に置いてある煙草の箱をくわえ、店外へと躍り出た。


「先生、勘定は済んでるから取り返しに行ったらどうだい?」


 そう店主に言われた宗像は、酔いで回る頭を抱え夜の往来へと踏み出す。

 驚く事に、煙草の箱を奪った白猫は店外で宗像を待っていた。


 白猫は宗像を見詰め、宗像が近寄ると白猫もその分遠ざかる。


「にゃん公、ワイをどこに連れて行こうとしてんねんな。

 そっちは家と反対やぞ……」


 白猫に導かれるまま、宗像は往来を行く。


 暫くすると急に往来が騒がしくなり、白猫と宗像の進行方向反対には人だかりが出来ていた。


『何かあったのか?』と宗像は感じたが、酔いと粘菌標本が収められた箱を奪われた焦りで気にする余裕は無い。


 白猫は宗像を連れ回すように五、六分ほど歩いた後、銜えていた煙草の箱を地面に置く。


 宗像が煙草の箱を拾って中身を確認すると、粘菌標本の下に小さい紙が敷いてあった。

 彼はその紙が気になったが、周囲が暗いため自宅で確かめる事にする。


 宗像が箱を懐に仕舞い辺りを見回すと、白猫はもう居なくなっていた――。





 帰宅した宗像は直ぐ寝入ってしまい、箱に敷かれた紙を確かめるのは翌日となってしまう。


 起床して早々、妻からの質問攻めに遭う宗像。


「お前さん、昨晩この辺に通り魔が出たってホンマやろか。

 ほら、お前さんがよう行く呑み屋の近く……」


「あー、昨日の人だかりはそれやったんかいな。

 確かに大勢で騒いどったわ」


「人死にも出とるようやし、怖いわー。

 お前さんも気ぃ付けんと。

 酔っぱらっとったら、その太鼓腹刺されてまうで!」


「はっはっは、ワイの太鼓腹は厚いからな。

 そう簡単には刺し通せへん!」


 そう言って自らの腹を化けだぬきよろしく叩いて見せる宗像。

 妻は呆れてものも言えず、洗濯物を干しに向かってしまう。


「やっと解放されたか……」


 宗像はもうひと眠りしようかとも思ったが、昨夜白猫に奪われた煙草の箱が気になり確認してみる。


 箱の底には、相変わらず紙が敷いてあったので取り出した。

 折り畳まれていた紙を広げると、そこには文字が記してある。


「【ムナカタヒザメホコリ】か……。

 中々いい名前やんけ。

 それに、あのニャン公が箱を銜えて行かへんかったら、自分は通り魔に刺されて今頃病院で寝とったかも知れんしな。

 ……そや、これ御守りにしたろ!」


 新種の粘菌を紛失せずに済んだばかりか、付ける名前まで決まった。

 然も、自分を通り魔から救ってくれた御利益ごりやく付きである。


 気分は上々の宗像だったが、黒尽くめの客の記憶は、とうに脳裏から掻き消えていた――。





 大昇〈食屍鬼(グール)〉前篇 結び その一 了

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