オペラグラスの君に その五

 一九一九年七月 帝都丸の内 帝都劇場





 本日の演目は〖人形の家〗で、ふじ の役柄は主人公〖ノラ〗である。


 宮森が帝劇に通わなくなってから一年余り。

 ふじ はその間、帝劇の看板女優にまで上り詰めていた。


 宮森は愛用のオペラグラスで感慨深く観劇する。


 舞台上の ふじ は眩しい。

 よどみなく堂々とした台詞せりふ回しに、優雅さと切れの良さをあわせ持つ所作が見事にまっていた。


 ノラを演じる ふじ の姿は、一年余り前とは比べ物にならない貫禄かんろくが漂っている。

 人形の家に派手な立ち回り場面は無いが、彼女の持ち味を発揮するには打って付けの演目だった。


 感性と感情とを共に満足させる事が叶った宮森。

 ふじ への花束を買い求める為、以前と同じ生花店へと向かう。





 前回の反省を踏まえ、今回は開花時期と花言葉を事前に調査していた宮森。

 彼は店員にオマカセではなく、花の種類にまで細かく指示を出した。


「えーっと、先ずは日々草をにちにちそうお願いします。

 それから……玉簾たますだれ大根草だいこんそうも。

 あと、透百合すかしゆりは有りますか?」


「奥で確認してきますので、少々お待ち下さい」


 店員が奥に引っ込むと明日二郎が口を出す。


『おっ!

 お前さんが花束たー珍しい。

 見た目は野暮天やぼてんだが、心持ちは伊達男だておとこってトコか。

 いいんじゃねーの、似合わねーけど』


『野暮天だの似合わないだの、散々な言い草だな。

 この怨みは、食事の際の感覚共有拒否で償って貰うぞ』


 処断の意味を察した明日二郎は、裁定をいま一度考え直して欲しいと涙乍らに訴え出る。


『おねげーしますだ御奉行様~。

 それだけは、それだけはお止めくだせ~。

 日に一度の食事がこのオイラ唯一の楽しみでござんす。

 そのような御無体ごむたい何卒なにとぞお止め下さるよう、おねげーしますだ~』


『レロレロの事、忘れてないからな』


 御奉行様の冷酷な御裁きが下り、御沙汰おさたを言い渡された明日二郎は見るからにショボくれる。

 竈馬かまどうまの如き大仰おおぎょう後脚こうきゃくも、この時ばかりはフニャフニャだった。


 すすけた背中を(宮森の脳内で)見せ付けている明日二郎を尻目に、宮森は勘定を済ませ再び帝劇へと向かう。





 帝劇に戻った宮森は受付へ向かい、花束を ふじ まで届けて貰うよう言付ことづけた。


 受付係は了承し、今日の予定を全て終えた宮森は帰途に就く。

 彼が ふじ に会いたいのは山々だが、主演女優となった彼女においそれとは近付けないと判断したのだ。


⦅今日は ふじ さんの晴れ舞台を観れて良かった。

 下宿に帰って、女将さんに演目の感想でも聞いて貰おう⦆


 そう心中でつぶやいた宮森が入り口広間エントランスホールを出ようとした矢先、突然彼の背後から声が掛かる。


「どうか御待ち下さい御客様。

 御客様はもしや、宮森 遼一 様ではありませんか?

 私は安永と申します。

 実は私ども、以前より寅井 ふじ から言付けされておりました」


「ふ、ふじ さんからの言付けですか?

 それは、どう云った内容で……」


「はい。

 宮森 遼一 様を見掛けたら出来るだけ引き留めて欲しい、と。

 今から寅井 ふじ に連絡を取りたいのですが、宜しいでしょうか?」


「そ、それはもう、願ってもない事で……」


 宮森の許諾きょだくを得た安永は、従業員専用扉から楽屋の方へと向かった。


 残された宮森は、入り口広間エントランスホールで所在なさ気に佇む。

 だがその実、『まさか ふじ さんが自分の事を覚えていてくれたなんて!』と、心中では小躍こおどりしていた。


 宮森の隠し切れないその感情を明日二郎が目聡めざとく……もとい、鼻聡く嗅ぎ付ける。


『何だ?

 主演女優からの逆出待ち要請?

 女優を贔屓にすると云うより、女優から贔屓にされてるぞ。

 モテ期到来か。

 はたまた朴念仁の権化からの脱却か?

 お前さん、オイラ達の知らない所でいったい何やってたんだよ!

 見てないよ言われてないよ聞いてないよ~~~』


『全く、好き放題言いやがって。

 ふじ さんとの事は説明してないからな。

 お前と今日一郎に出会う前の話だし。

 お前達とつるむようになってからはそんな暇も無かったしな。

 自分だっていま何が起こってるのか解らん。

 くれぐれも頭の中で騒いでくれるなよ!』


『こんな面白いコト放ってはおけんぜ。

 何なら、このオイラがお前さんのプレーをアシストしてやっても良い!』


『明日二郎の助太刀なんていらん。

 何かやったら、ホントに食事を共有しないからな!』


『そんな御無体な~。

 それを言われちゃぁ、こっちはグウの音も出ませんぜ……』


 宮森と明日二郎が仲良くじゃれ合っていたその時、寅井 ふじ が現れた。


 当然衣装は着替えてあるし化粧も落としてあるので、今の ふじ に主演女優の面影おもかげは無い。

 はたから見れば、垢抜けない町娘と云った風体ふうていだ。


 ふじ が宮森に話し掛ける。


「お花、ありがとうございます。

 宮森さんは又いつか観に来てくれると思ってました。

 良かったら控室ひかえしつまでどうぞ……」


「えっ⁉

 い、いいんですか?」


 突然の御誘いにビクつく宮森だったが、ふじ の心遣いを無碍むげにも出来ず控室へ同行する。


 その様子を、入り口広間エントランスホール一画いっかくから眺める安永。

 ふじ と宮森が従業員専用扉をくぐるのを見届けると、彼女は先程までの自身の言動に小首をかしげる。


⦅なんであの御客さんのこと急に思い出したんだろ。

 今の今まで忘れてたのに……。

 それに、寅井さんから言付けなんて頼まれてたっけ?

 まあいいか、寅井さんも嬉しそうだし。

 それにしても、寅井さんにが居るなんてね。

 意外だわ……⦆


 安永が何事もなく業務へ戻ると、ひとりの客が入り口広間エントランスホールから出て行く。


 その客はこの蒸し暑い中で黒尽くめ外套コートを羽織り、黒の紳士帽子トップハットを被っていた。


 そしてどの従業員からも挨拶される事なく、帝都の喧騒けんそうへ繰り出したのである――。





 オペラグラスの君に その五 了

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