オペラグラスの君に その四

 一九一九年七月 帝都丸の内





 念願の甘味処に入り、明日二郎センセー御所望の蜜豆を口へと運ぶ宮森。

 実体の無い明日二郎センセーが食物を味わうには、宮森との感覚共有が必要である。

 その為には先ず、宮森自身が食事をしなければならない。


 明日二郎センセーは美食道グルメロードきわめるべくこの場に臨んでいるのに対し、肝心の相方あいかた洋袴ズボン物入れポケットに忍ばせているオペラグラスをスリスリしている所為で、味覚の冴えがいまいちだった。


 明日二郎センセーの怒号が飛ぶ。


『おいミヤモリ!

 お前さん何ボケッとしてミツマメ食ってんだ。

 ちゃんと味わえ。

 そうでなくちゃオイラに味が伝わんねーだろ。

 お前さんが女性との思い出話かミツマメかを選ばせたんだろーが。

 そんでオイラはミツマメを選んだ。

 胸も張り裂けんばかりの思いで、はらわたを断つ思いで!

 だから頼むよ~。

 お願いだからミツマメに集中してくれよ~』


 いま宮森の視覚には明日二郎の立体像が投影されており、明日二郎の体表をくまなく覆う眼球から、大粒真珠の如き涙がこぼれ落ちている所である。


 怒号に始まり号泣で終わろうとする明日二郎を、冷ややかな目で睥睨へいげいする宮森。


『何も泣く事はないだろうが、泣く事は』


『うぅ~、だって、だってさ。

 せっかくミツマメと取組とりくみが出来ると思ってたのに、気合い入れて立会たちあってくんねーんだもん。

 これが泣かずにいられるかってんだ……』


『明日二郎の想いは理解したから泣くの止めろよ。

 こっちまで悲しみの感情が流れて来る……』


 やっとこさ明日二郎センセーの嘆願たんがんを聞き入れた宮森。

 蜜豆に意識を集中しわんに手を伸ばす。


 始めは具材単品で頬張ほおばっていた宮森だったが、やれどれとどれを一緒に味わえだの、黒蜜のさじ加減を調整しろだのと脳中から指示が飛び出して来た。

 どっちが御奉行おぶぎょうなんだ、と云う話である。


 そして遂に、美食グルメ評論家がその牙を剥いた。


『ミツマメと云えば豌豆豆えんどうまめであろう。

 これがなくては始まらない。

 砂糖で柔らかく煮てあり、ホックリとした歯触りと豆の素朴な風味が心を落ち着かせてくれる。

 これで景気付けは済んだ。

 先ずは寒天から行ってみよう。

 蒸し暑い日が続く今日この頃、寒天のプルプル食感は一服いっぷくの清涼剤として、一介いっかい労働者プロレタリアたる我が身をうるおしてくれる。

 もちろん、蜜柑みかんや桃などの果物とも相性が良い。

 思わず「効果はバツグンだ!」と叫びたくなるぐらいだ。

 ここは叫びたくなるのをグッとこらえ、今一度冷静さを取り戻す為にも白玉しらたまに狙いを移す。

 試しに、一つ丸ごと(宮森の)口に放り込んで様子を見よう。

 先程の蜜柑や桃の酸味と黒蜜の甘みとを包み込み、持ち前の滑らかな口当たりと相まって不思議な心地。

 うん、悪くはないが少し物足りないな。

 思い切って別の果物と御一緒させてみよう。

(モグモグ)……こ、これは、何という晴れやかさと爽やかさなのか。

 オイラの味覚を突き抜ける南国からの使者。

 やってくれた、パイナポーがやってくれたよオニイチャン!

 白玉ムッチリ砂浜ビーチに、黒蜜ウエーブが優しく打ち寄せる。

 寄せては返す波の如く和のマリアージュを奏でようとしたその時、唐突に場をき乱したのはパイナポー熱帯風雨スコール

 舌上ぜつじょうに吹き荒れる爽快さの嵐。

 それはまさに南国的災害トロピカルハザード

 嵐に打ちのめされたオイラへ、寒天から救いの手が伸ばされる……。

 先程の南国的災害トロピカルハザードで壊滅状態だった味覚は、寒天のしっかりとした歯応えで復旧工事を終えた。

 寒天は一度固まってしまえばそう簡単には煮崩れしない。

 その堅固さは、賃金向上や職場改善の為に立ち上がった労働者プロレタリア達のそれである。

 しかしその結束を篭絡ろうらくせんと近付く黒い影。

 黒蜜である。

 黒蜜のなまめかしい誘惑にあらがえなかったオイラは、会社からの妥協だきょう案に乗ってしまった労働者プロレタリア達のように無力だ。

 そこに清き乙女の如く姿を現したのが蜜漬け桜ん坊。

 乙女をもてあそぶようで気が引けるが、とりあえずはやっておかなくてはなるまい。

 ミヤモリ、桜ん坊をレロレロしてくれ』


『何だって?

 何で桜ん坊を舌の上で転がすなんて真似まねをやらなくちゃあいけないんだ。

 行儀が悪いにも程があるぞ』


 明日二郎からの謎めいた指示に難色を示す宮森。


 宮森の主張は至極しごく真っ当だが、明日二郎は一歩も引く様子がない。


『レロレロはやんなきゃいけないんです、様式美なんですー。

 これをするとしないとでは、日本文化に対する理解度が大違いなんですー!』


『言語や場景までも正確に伝わる精神感応でも意味が解らん。

 全く解らんぞ明日二郎……』


『ああ、もうダメだぁ。

 ミヤモリの思出をポロポロ覗いちゃお~♥』


『分かったよ。

 解らないけど判ったよ。

 やればいいんだろ、やれば……』


 些細ささいな事で勝手に記憶を覗かれたくないと折れてしまった宮森。

 周りの目を気にし乍らレロレロを試みる。


『レロレロレロレロ……これでいいのか明日二郎?』


『やり方はヨシ。

 もっと力強い動きで持続させ、ちゃんと声を出すんだ』

 

『くそ、勝手ばかり言いやがって……』


「レロレロレロレロレロレロレロレロ、レロッレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロッレレロレロレロ……」


『サンキュー。

 もういいぞミヤモリ。

 中々に堂に入った良いレロレロであった♪』


 無事任務を果たした宮森だったが、他の客からの冷たい視線が突き刺さる。


「ねえひろしさん、あの人何してるのかしら?

 嫌だわ、気持ち悪い……」


「うっわ!

 信じらんねー。

 変態かよ、あいつ」


「お母さん、僕もやりたいレロレロしたいー。

 ねー、いいでしょー?」

 

「駄目に決まっているじゃありませんか!

 あんなはしたないモノ見るんじゃありません!」


 完全に不審者、不審物扱いされている宮森に、明日二郎からねぎらいの言葉が贈られた。


『オシ、よく頑張ってレロレロしてくれたな。

 これで心置きなく桜ん坊を食せるぞ』


『明日二郎ェェ……』


 宮森からの怨念を感じないではないが、明日二郎は気を取り直して御食事続行の指示を出した。


『我々は黒蜜の誘惑を断ち切るべく、恐る恐る蜜漬け桜ん坊を(宮森が)口へと運ぶ。

 柔らかな酸味と共に繰り出される、芳醇ほうじゅんながらも清廉せいれんな香り。

 清い!

 たっとい!

 やはり桜ん坊はこーでなくては。

 油断したオイラは、ふと黒蜜が絡んだ寒天を同時に味わってしまう……。

 あぁ無情!

 この世はけがれに満ち満ちていた。

 崩れ落ちる寒天に染み渡る黒蜜。

 そこに加わるは、噛み散らされて遂に禁断の蜜があふれ出た桜ん坊……。

 あれほど清く尊いと信じていた乙女は、黒蜜と破廉恥はれんち痴態ちたいさらして我々を惑わす第二の毒婦どくふだったのである。

 勝負あり。

 我々の闘いに終止符が打たれた。

 敗北をきっした我々にとって、いま出来る事とはなんだろう。

 あれは……豌豆豆だ。

 豌豆豆が見えるよオニイチャン。

 遂に最後のひとさらいを(宮森が)口に含むと、あの頃の懐かしい日々が蘇る。

 働いては寒天で潤う毎日だった。

 雨にも負けないし風にも負けないが、南国的災害トロピカルハザードには負けた。

 蜜漬け桜ん坊の初々ういういしいよそおいにはだまされた。

 それが今回の決まり手と云っても良いだろう。

 でも、こんなオイラにも帰る場所が在るんだ。

 待ってくれている人達が居るんだ。

 だから、豌豆豆に望郷ぼうきょうの念を重ねた所で筆を置こうと思う。

 今だけは、そうさせてくれ……』


 最早恒例となった明日二郎の散文詩ポエムに、宮森はうんざりすると共に感心してもいた。


『今回は長かったな明日二郎。

 あんな事までさせやがって、後で覚えてろよ』


『そうカリカリするない。

 これも異文化交流の一環よ』


『異文化交流?

 余計に解らんぞ……。

 それにしても楽しみやがって、今回は蜜豆に完敗って所か』


『ああ。

 完敗も完敗、大金星だ!』


『完敗なのに勝ってるじゃないか……』


『明日二郎親方のグルメ巡業じゅんぎょうスイーツ場所、文句なしの白星スタートだ!』


『どう云う理屈だよ……』


 宮森は先ほど抱いた感心を全て取り消し、うんざりした心持ち一〇〇パーセントのまま、ほぼ一年ぶりに帝都劇場へと向かう。





 オペラグラスの君に その四 了

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