オペラグラスの君に その三

 一九一八年六月 帝都丸の内 帝都劇場





 この日 宮森は帝都劇場へと向かい、予定通り椿姫を観劇した。

 ふじ はどうやら、主人公である〖ヴィオレッタ・ヴァレリー〗の召使い〖アンニーナ〗役での出演らしい。


 椿姫は歴史や宗教が絡む題材ではないし筋書きも簡単なので、『ここが例のお高いオペラグラスの使い時だ!』とばかりに宮森は舞台上を眺め回す。

 生来の研究者気質が出てしまったのだろうか、周囲の観客と比べるとやや偏執へんしつ的にも映った。


 普段の ふじ は、地味な顔立ちであか抜けた雰囲気などは微塵みじんも無い風貌ふうぼうである。

 ぢんまりとした体格にやや大きい頭の所為もあり、均整の取れた体付きとも云えない。

 だが、舞台上の ふじ は一般的基準での美しさだけでは測れない輝きを放っていた。


 地味な顔立ちは化粧映えのする顔とも云え、やや大きい頭は観客席から良く目立つ。

 一般的には不利点とされる要素を備えた ふじ だが、舞台演劇だと逆に利点となるのが面白い。


 勿論、見た目以外にも見るべき所は有った。

 ふじ のハキハキとした声は響きが良く、客席後方の観客の耳にも届き易い。

 声の張りだけでなく、若い年代特有のトゲトゲしさが感じられないのである。


 確かに主演女優の演技は素晴らしいものだったが、それにも増して、宮森には舞台上の ふじ が輝いて見えていた。


 舞台が幕切れとなり、宮森は俳優達に惜しみない拍手を送る。


 出演者挨拶カーテンコールが終わると、宮森は一旦いったん劇場外へ出た。

 劇場近くの生花店で花を買い求める為である。


 宮森の寄った生花店には先客が居た。

 彼が初めて舞台を観劇したあの日、退場時にぶつかった黒尽くめの男である。


 あの時はまだ四月だったので黒尽くめの外套コートでも解らなくはないが、今はもう六月。

 普通は怪しまれる筈の恰好だが、女性店員と宮森は関心を向けない。

 男の姿が視界に入っているにも拘らず、何故かその格好を気にしないのだ。


 黒尽くめの男を無視して店員に話し掛ける宮森。

 明らかに自信なさ気な彼の様子に、店員の方も苦笑交じりで接客している。


「あ、あのー。

 は、花束を見繕みつくろって貰いたいんですけど。

 えーっと、椿はもう、無いですよね……」


「ええ。

 椿は冬の花ですので今はありません。

 お客さん、もしかして劇場の女優さんに贈るんですか?」


 朴念仁ぼくねんじん権化ごんげたる宮森にも、椿が冬に花を咲かせる事ぐらいは知っている。

 しかし乍ら、今日の演目にちなんだ花を贈りたいと思うのは人情だろう。


 その人情に応えたいと思うのもまた人情。

 店員の機転が冴え渡る。


「それでしたら、夏椿なつつばきはどうですか。

 今ちょうど開花時期なんですよ。

 こちらまで持ってきますね。

 他にも何か加えますか?」


「はっ、はい!

 お願いします。

 ただ、今は持ち合わせがちょっと厳しいんで……」


「任せて下さい」


 夏椿を用意し終え他の花を見繕っている店員に、黒尽くめの男が静かに近付く。

 彼は花を選んでいる店員の目前で手をかざした後、店員に何か耳打ちした。


 店員は一瞬動作が固まったが、その後は何事も無かったかのように花を見繕う。

 黒尽くめの男はそのまま店を出て行くが、相変わらず店員は声一つ掛けない。


「お客さん、こんな感じでどうでしょう?」


 選定が終わったらしく、店員が花束を持って来た。


 夏椿の他には、末広草すえひろそう石竹せきちく和蘭芹オランダぜり……。

 夏椿の白、末広草の蒼、石竹の紫、和蘭芹の黄緑。

 花束の規模は小さいが、中々に多様な顔ぶれである。


⦅た、高そうだな。

 でも、そろそろ ふじ さんが劇場から出て来る頃かも知れない。

 どうしよう……⦆


 宮森が値段と時間を心配した矢先、店員はここぞとばかりに花の説明を始める。


 宮森は決断せざるをえない。


「お買い上げありがとうございましたー」


 買ってしまう。


 ここまで来たからには、花束を ふじ に手渡すよりない。

 宮森は帝劇へと戻り、花束の贈答を受付係に頼む事にした。


「あ、あのー、出演者の方に花束を送りたいんですけど……」


「御厚意まことに有り難う御座います。

 では、出演者の名前をお聞かせ下さい」


「と、寅井 ふじ さんと云う方です……」


 ふじ の名を語った宮森を見て、受付係の女性は何かを思い出したようだ。


「御客様はしや、四月ごろ観にいらっしゃって御怪我をなされた方では御座いませんか?」


「そ、そうです!

 その時ふじ さんに手当てして頂いた者です」


「そうでしたか。

 私もその時近くにおりましたもので、良く憶えております。

 彼女に花束をお持ち頂いたようで。

 この安永がお預かりして手渡しても良いのですが、寅井でしたらもう直ぐ二階の売店に来ると思います。

 今日はまだ売店での業務が残っているでしょうから」


「そ、そうですか。

 では、じ、自分で手渡して来ます!」


『自分らしくない事をしてしまった……』そう思い乍らも宮森は売店へと向かう。


 売店では、丁度ふじ が店の後片付けをしている所だった。

 閉店間際で客も居ない。


 宮森を見付けた ふじ の方から声を掛ける。


「あっ、宮森さん。

 お久し振りです。

 もしかしてその花束って……」


「ふ、ふじ さん、今日が初舞台だったんですよね。

 自分、観劇させて頂きました。

 初舞台、おめでとうございます」


 初めての事だったのだろう、ふじ は大変感激して宮森からの花束を受け取った。


「宮森さんありがとうございます。

 この白い花は夏椿で、紫の花は石竹ですね。

 他の花は、えーっと……」


「そ、その蒼い花は末広草、って云うそうです。

 そっちの黄緑色の小さいやつは、お、和蘭芹……」


「宮森さん、お花に詳しいんですか?」


「い、いえ。

 さっき行った花屋の受け売りです、けど……」


「でしょうね。

 石竹の花言葉知ってます?

『貴方が嫌いです』って意味なんですよ」


『しまった! あの生花店の店員にやられた!』と、宮森に激震が走る。


 朴念仁の権化たる宮森に、花言葉の意味にまで気を配れとは酷と云うもの。


 ふじ は宮森の申し訳なさそうな表情を見て一瞬ポカンとした顔付きになるが、笑壺えつぼに入ったようで笑いをらし乍ら花言葉を補足する。


「宮森さん、そんなに落ち込まないで下さい。

 花言葉って一つじゃないんですよ。

 石竹の場合は『純愛』だとか『無邪気』だとの意味もありますし、『才色兼備』だとか『女性の美』、との意味もあるみたいです」


「そ、そうだったんですか。

 やってはいけない事をやってしまったんじゃないかと思って冷や冷やしました……」


「大丈夫ですよ。

 それより、わたしの演技どうでした?

 端役だからあんまり記憶に残らなかったかも知れませんけど……」


「自分はその、演劇に関しては素人でして。

 自分では注意深く観ている積もりでも、正直に言うと……その、小難しい事は良く解りません。

 でも、ふじ さんの演技は何かこう、真っ直ぐに思えました。

 今回の役柄の所為だけじゃないと思います。

 あー、褒め言葉になってない、ですよね」


「いえ。

 演目を楽しんで頂けたらのなら良かったです。

 よく観えていらしたんなら、今回は前方見物席からの観劇だったんですか?」


「いえ、まだ金欠状態が続いておりまして……って、ふじ さんには関係ないですよね。

 今回も後方席だったんですけど、ちゃんと持って来てますから!」


 少しほこらしげに、この前購入したお高いオペラグラスを出して見せる宮森。


「その節は購入して下さってありがとうございました。

 このオペラグラス高いんですよね。

 大丈夫だったんですか?」


「その時は大丈夫じゃなかったんですけど、今は大丈夫になりました、はい。

 なに言ってるか……解りませんよね?」


「はい。

 なに言ってるか解りません!」


 そう言って茶化す ふじ の笑顔が宮森にも伝染する。

 彼は又もや、これ迄に感じた事の無い感情を味わってしまった。


『これが恋か……』とも宮森は考える。

 考えたのだが、彼にはその感情が良く解らなかった。


 若いなりに性欲は有るし、同性愛者でもない。

 それでも、女性と一緒に居たいとか家庭を持ちたいと思った事は無かった。


 宮森には、ふじ との仲を色恋にまで発展させる気は更々さらさらない。

 彼の本意ではないにせよ、九頭竜会の儀式では同性をも含めた乱交が行なわれ、何より非合法な活動に手を染めねばならないからだ。


⦅自分には ふじ さんを幸せにする事など到底できない。

 だから今は只、夢に向かって前進し始めた彼女を応援したい……⦆


 彼には、ふじ が女優として花開いてくれる事を願う気持ちだけであった――。





 オペラグラスの君に その三 了

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