オペラグラスの君に その二

 一九一八年四月 帝都丸の内 帝都劇場





 盛大にズッコケた宮森に捥り係の女性が寄り添う。


「大丈夫ですかお客様!

 安永やすながさん、この場をお願いします。

 お客様が怪我されましたので、救護室にお連れしますね。

 ではお客様、早くこちらに」


「ええっと、ええっ?

 たっ、大した事ありませんよ。

 少し切っただけですから……」


 捥り係の女性はその場を別の職員に任せ、宮森を問答無用で引っ張って行く。

 彼女の行進は中々に力強く、宮森は振り切れずにされるがままだ。


 不測の事態とは云え、生まれて初めての観劇で普段は立ち入れない場所に入る事が出来た宮森。

 嬉しいのか哀しいのか、複雑な気分である。

 その後、彼は救護室で簡単な手当てを受けた。


 彼女が申し訳なさそうに宮森へびる。


「この度は当劇場においで下さったにもかかわらず、お怪我させてしまい誠に申し訳ございませんでした……」


「い、いえ。

 自分が慌てて転んだだけですから。

 そ、そちらの所為ではありませんよ。

 お気になさらず……」


 宮森が怒っていないと知り、安堵あんどした表情の女性。

 彼女は宮森の首に絆創膏ばんそうこうを貼る序でに、自己紹介を始めた。


「わたし、【寅井とらい ふじ】と申します」


「はあ……あっ!

 宮森ですっ。

 自分、宮森 遼一と云います!

 とらい、ふじ さん……富士山?」


「あははっ!

 わたし、どこへ行ってもそのあだ名で呼ばれるんです。

 そのあだ名以外で呼ばれた事がないぐらい」


 屈託くったくのない ふじ の笑顔に宮森もついほだされてしまい、普段では口に出来ない言葉も出てしまう。


「そっ、それとは知らず失礼しました。

 どうか気を悪くしないで下さい。

 それで、寅井さんはこの劇場にどれくらいお勤めなのですか?」


「ふじ でいいですよ。

 勤め始めたのはこの春からなんです。

 わたし、つい先日まで帝都劇場付属技芸ぎげい学校の生徒だったんですが、このたび卒業しまして。

 今は劇場で雑用を勤めながら、舞台女優を目指してるんです」


「ああ、ふじ さんは女優さんの卵でしたか。

 なれるといいですね、女優さん」


 ふじ は絆創膏を貼り終え、今度は包帯を巻き乍ら宮森に答える。


「実はわたし、出演が決まったんです。

 ほんの端役はしやくですけどね。

 六月に公演が予定されてる、〖椿姫つばきひめ〗っていう舞台です」


「ホントですか?

 もう夢が叶うとは、ふじ さんは実力の有る方なんですね。

 え~っと、椿姫でしたね。

 自分は暇なんで、多分観に行けますよ」


 包帯を巻き終えた ふじ は微笑を崩さず、少しはにかんで宮森に告げる。


「ありがとうございます。

 宮森さんのご都合が付かれましたら、是非いらして下さいね。

 わたしの出番は少ないですけど、どうか御贔屓ごひいきに」


「ええ。

 あっ、それと……オペラグラスはごめんなさい。

 壊れちゃいました、よね……」


 どんくさいがゆえにオペラグラスを破壊し、ふじ に手当までさせてしまった宮森。

 補償金が返ってこないだけだが、有耶無耶うやむやには出来ず ふじ に謝罪する。


 だが ふじ は、とんでもないと云った面持ちで宮森に返答した。


「いえ、宮森さんは悪くありません。

 わたしがあんな所で宮森さんの気を散らす会釈をしてしまって、こちらこそ申し訳ないです。

 保証金の方はわたしが上役うわやくに掛け合って返金させてもらいますので。

 宮森さんは御心配なさらないで下さい」


「自分、急に立ち止まったお客さんにぶつかったみたいで。

 おまけにコケちゃいました。

 お恥ずかしい所をお見せしてしまい、こちらこそ申し訳ないです……」


「え?

 誰かにぶつかったんですか宮森さん。

 わたしはてっきり、宮森さんがひとりでに足を滑らせたものかと……」


「た、確かにぶつかったと思ったんだけど、自分の勘違いなのかな?

 まあ、大した事なくて良かったです。

 そ、そ……」


『それに、ふじ さんのような方にも出会えましたし……』とまでは流石に言えず、尻切しりき蜻蛉とんぼでの終了と相成あいなる。


 救護室を出たふたりはオペラグラスの貸し出し受付台カウンターまで行き、ふじ に押し切られる形で宮森は保証金を返却された。


 ばつの悪さが体中を駆け巡る宮森。

 劇場への詫びと ふじ への恩返しを兼ね、その後売店に寄ったのは言う迄もない。


 売店に入った宮森はオペラグラス売り場へと直行。

 一番高価な品を手に取った。

 持ち手部分は落ち着いた褐色かっしょくの木材で、紹介文には鬼胡桃おにぐるみと書かれている。


 接眼透鏡レンズと対物透鏡レンズは共にスイス製。

 双胴を繋ぐ部分には倍率調整用の回転目盛りダイヤル


 収納箱は、アールヌーボー調の金鍍金きんめっき唐草からくさ模様がほどこされたハイカラな意匠デザイン

 小型で嵩張かさばらず控え目な色味だが、確かな存在感を感じさせる一品だ。


 価格は十円(現在の貨幣価値で約四万円)。

 実家からの仕送りで生活している宮森にはこくな値段である。


「お買い上げありがとうございましたー」


 買ってしまう。


 今月は食うや食わずの生活を覚悟するよりない宮森だが、ふじ の笑顔を見られた事で良しとした。





 一九一八年六月 宮森の下宿先





 お高いオペラグラスを購入する羽目になった宮森の当面の問題は住居だ。

 彼は真道院しんとういん大学の学生寮に入居していたが、卒業と云う名の退去勧告で、四月末には寮を出なくてはならなかったからである。


 目ぼしい就職先にも出会えず困り果てていた矢先、ある人物から声が掛かった。

 多野 教授である。


 多野は宮森の優秀さを認め乍らも故意に大学から放逐ほうちくし、その上である就職先を斡旋あっせんした。

 勤め先は勿論、魔術結社九頭竜会である。


 帝都劇場で ふじ と出会ってからひと月も経たないうちに、宮森は裏街道へと足を踏み入れる事となってしまった。


 宮森は帝居からほど近い神田かんだ神保町じんぼうちょうの下宿に移り住み、そこから帝都地下の各儀式場まで通う事となる。


 今日は ふじ の初舞台だ。


 宮森はいそいそと下宿の玄関先まで向かうが、折り悪く女将に呼び止められる。


「ちょっと宮森さん、どこ行くの?

 あんまりウロチョロされるとあたしが困るんですけどね!」


「……えっと、今日は天気もいいし、そこら辺ブラブラして来ようかな~と……」


「もう夕方だけどね。

 それで、夕飯はどうするんです?」


「お、お気になさらず。

 夕飯は外で食べて来ますよ」


「あいよ。

 後で夕飯食べたいって言っても知らないからね。

 ま、あたしにゃ関係ございませんけど」


『じゃあ言うなよ』とは言えず、宮森は女将への挨拶もそこそこに下宿を出た。


 先程の女将の態度には訳が有る。

 女将は九頭竜会新米会員の監視役で、宮森の行動を逐一ちくいち見張っていなければならないからだ。


 九頭竜会を始めとする魔術結社は、会員に非合法な行ないを強要する。

 弱みを握られた時点で組織の言うがままになるよりないのだが、一部の者はそれに耐えられず、脱走をはかる事が間々ままあるのだ。


 当然警察や司法にも結社の手が伸びているので、警察その他に駆け込んでも無駄である。

 駆け込んだ矢先、結社に引き渡され裏切り者として粛清しゅくせいされるだけだ。


 しかし逃亡を許したとなれば話は変わってくる。

 魔術組織の実態を世間に暴露されれば、揉み消すのに多大なカネと時間を費やす事になりかねないし、脱走者の持つ情報が敵対組織に利用される恐れも有るからだ。


 魔術結社の末端の末端でしかない女将は、理由を知らされずに協力させられている。

 それでもなお嬉々ききとして役目をこなそうとする女将。


 その女将の姿こそ、洗脳成功の証左しょうさだと言えるだろう。





 オペラグラスの君に その二 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る