第二節 オペラグラスの君に

オペラグラスの君に その一

 一九一九年七月 帝都丸の内





 梅雨明けはまだだが久々に晴れ間が見える今日、明日二郎は宮森の脳内で梅雨晴れを満喫していた。


『やったー!

 お出かけお出かけ~♪

 今日は帝劇、明日は六越むつこし~♪

 おいミヤモリ、お前さんも人情の機微きびが解るようになって来たではないか。

 師匠は嬉しいぞ♪』


『確かに帝都劇場へは行くが、六越百貨店には寄らないから。

 自分と明日二郎の消費時代幕開けはまだ先だから。

 今日はどうしてもたい公演が有る。

 公演中は邪魔するなよ』


 普段とは違う宮森のワクワクを感じ、明日二郎はそれとなく探りを入れてみた。


『なあミヤモリよ、お前さんが演劇たー珍しい。

 あーとせんすのカケラも無いような顔してるのにな』


『芸術的感性の欠片かけらも無い顔で悪かったな。

 ある人との約束なんだよ』


『えっ、それマジ?

 誰との約束?』


 明日二郎の問いに、宮森は僅かな齟齬そごを感じた。

 何故ならば宮森が九頭竜会に入会して直ぐ、比星 兄弟ブラザーズは秘密裏に宮森の身辺調査をしていたと告白したからである。


 宮森に芽生えた小さな不審点に気付かないのか、明日二郎が答えを催促さいそくした。


『なあミヤモリ~、ある人ってもしかしてオンナか?

 オンナなのか?』


『オンナ、なんて言うんじゃない。

 女性に対する不躾ぶしつけな発言や仕草は非モテモテるにあらず一直線だぞ。

 明日二郎センセーともあろう者が、デ・リ・カ・シ・ーが足りないんじゃないか?』


『ちぃ~っ、よりによってお前さんに忠告されるなんて……。

 魔空界まくうかいで数々の浮名を流して来た稀代きだいのプレイボーイ、比星 明日二郎の名が泣くぜ』


『頼むからそのまま泣いててくれ』


 宮森のない応対にタジタジの明日二郎。

 何か魂胆が有るのか、必死に食い下がる。


『なーミヤモリー、もし良かったらなんだけどー。

 お前さんの記憶、のぞかしてくんない?

 チョット、ほんのチョッ~トだけでいいからさ。

 頼むよ~』


『駄目だ。

 お前どうせ茶化すだろ。

 それよりも開演まで時間が有る。

 見物席の方は九頭竜会の伝手で取ってあるからな。

 慌てて行かなくてもいい。

 せっかく外出した事だし、今日ばかりは羽目はめを外してもいいだろ。

 何か食べたいものはないか?

 少量なら、修業にも差し支えないと思うぞ。

 それとも、自分の思い出話の方がいいのか?』


『宮森の記憶とクイモン、二者択一と云う事か……。

 ヨシ、決めた!

 最近蒸し暑い日が続いている、となれば蜜豆だミツマメだー♪』


『明日二郎は実体が無いんだから蒸し暑さは感じないだろ。

 まあいい、近くの甘味処かんみどころを探そう』


 甘味処の暖簾のれんを探しては吟味ぎんみする明日二郎。


 その様子を眺め乍らも、宮森は洋袴ズボン物入れポケットに忍ばせたオペラグラスに指を伸ばす。


 そして昨年 比星 兄弟ブラザーズと出会ってから辿たどる暇が無かった……いや、封じ込めていた淡い記憶へと、想いを伸ばすのであった――。





 一九一八年四月 帝都丸の内 帝都劇場





 宮森は大学を望まぬ形で去る事となり、失意のどん底であえいでいた。

 田舎に戻ると云う選択肢は、宮森にとって必ずしも良いものではない。

 むしろ嫌悪すべき事柄ことがらですらあった……。


 そんな思いに沈んでいた矢先、宮森は帝都劇場を訪れる。


 宮森は芸術を理解する機微を持ち合わせていない。

 少なくとも、その時まではそうだった。


 書画、彫刻、音楽、建築、料理、園芸、演劇、文芸。

 宮森にとって芸術とは、自身の研究にはくを付ける為の副次的な要素でしかなかったのである。

 しかし研究者の道を断たれた宮森にとって、芸術は心の逃げ場としての価値を持ち始めた。


 演劇に関してはど素人しろうとの宮森だが、一応今日の公演を確認する。


 演目は〖サロメ〗。

 聖架教せいかきょうの各書物にも記述が在る物語で、フランス人の戯曲家【オスカー・ワイルド】が執筆した本の日本語版らしい。


 開始までには時間が有ったので、宮森は劇場二階に在る売店へと向かった。


 宮森は視力が弱い。

 弱視とまでは行かないが、それでもかなりの近視だ。


 取れた席が一階後方だったので、裸眼に眼鏡では舞台を楽しめない。

『出費がかさむがいたかたない』と、オペラグラスを購入しに売店へと入る。


「いらっしゃいませー」


 売店の店員は宮森よりも若い女性だった。

 子供ではないが、大人にも遠い。

 中途半端だが、人生で唯一の年代。


 宮森は店員に会釈えしゃくし、売り場のオペラグラスを値踏みする。

 オペラグラスには幾つかの種類があり、眼鏡型、取っ手付き眼鏡型、箱型など、当然った造形の物は値が張った。

 勝手の判らない宮森は売り場で長考してしまう。


 同じ姿勢で固まっている宮森を見かねたのか、店員の女性が話し掛けて来た。


「お客様、オペラグラスをお探しですか?」


「はっ、はい。

 自分は目が悪いのでその、見物席も後ろの方でして。

 どっ、どれを選んでいいのやら……」


 突然の接客にたじろぐ宮森だったが、店員は意外な提案をして来た。


「当劇場では、オペラグラスの貸し出しも致しております。

 迷われているようでしたら、貸し出しの方をご利用なさってはいかがでしょうか?」


「かっ、貸し出し?

 でっ、では、その貸し出しで、お願いします……」


 オペラグラスを購入する必要は無いと知り、宮森は今まで気張きばっていた事が馬鹿らしくなった。


 店員はそのままオペラグラスの貸し出し受付台カウンターへと宮森を案内し、売店へと戻って行く。


 オペラグラスの貸し出しは、賃料の他に保証金を支払う仕組みだ。

 返却時に保証金は返却されるが、破損などした場合は前もって支払っていた保証金が戻らない。


 オペラグラスを受け取った宮森は見物席へと向かう。


 今日の演目であるサロメは、残忍な場面も有り刺激の強い内容だった。


 ただ、宮森は大学で伝承学を専攻していた身である。

 歴史の見識は幅広く、宗教への造詣ぞうけいは深い。

 物語の中に引き込まれるのは……いや、物語のふちを覗き込むのに時間は掛からなかった。


 現実感よりも非現実感を重視した舞台美術。

 猟奇的な部分が多々あり乍らも、恋愛感情にうったえる筋書き。


 それらをまとめ上げ、観客の心に放り込んで来る役者の演技力。

 愛憎が狂気へと振り切れる幕切れフィナーレ――。


 宮森は、自身で気付かぬうちに今迄にない満足感を抱いていた。

 その感情が、世間では感動と呼ばれている事すらも知らずに。


 公演が終了し、宮森は退場者の列に連なる。

 もぎりの係は入場時とは違い、先ほど宮森が寄った売店の女性だった。


 彼女は宮森に気付き笑顔で会釈する。

 宮森も釣られて会釈を返した。


 女性にオペラグラスを手渡そうとした時、宮森の前に居た客が急に立ち止まる。

 宮森はそれに気付かず、客の背中にぶつかってしまった。


 その男は真冬でもないのに黒尽くろづくめの外套コートを羽織り、被っている帽子も黒の紳士帽子トップハットと云う服装。


 一般国民の大半が和服を着ていたこの時代。

 目立つ格好の筈だが、誰一人として目を留めてはいなかった。


 宮森は、黒尽くめの男にぶつかったはずみでオペラグラスを取り落としてしまう。

 慌てた宮森はオペラグラスを拾おうとするが、ちょうど別の観客の足に引っ掛かってしまい盛大にズッコケてしまった。

 ただつまずいただけなら良かったのだろうが、運悪く床に落ちたオペラグラスに宮森の胸がおおかぶさる形となってしまう。


「あ痛っ……」


 オペラグラスはひしゃげ、とがった部品が宮森の首まわりを傷付けてしまった。

 傷自体は浅かったが、首から血が滲んでいるので若干じゃっかん目立つ。

 の事もあり、神経が細い付近の客が騒ぎ立てた。


 その様子を観ていた者が居る。

 我関われかんせずと云った風体ふうていたたずむ、先ほど宮森がぶつかった男……。


 顔立ちは日本人のそれだが、背が高く肌が異常に浅黒い。

 浅黒いと云うより、仄暗ほのぐらい。


 もぎり係の女性に付き添われこの場を離れる宮森を眺め乍ら、彼は満足そうに唇をゆがめる。


 ただその歪みは、この場の誰も気付く事はなかった――。





 オペラグラスの君に その一 了

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