オペラグラスの君に その六
一九一九年七月 帝都丸の内 帝都劇場
◇
ふじ の案内で控室に入る宮森。
彼は善く善く縁が有るらしく、劇場関係者以外立ち入れない場所に入るのは今回で二回目だ。
ふじ が宮森に着席を勧める。
「どうぞお座り下さい。
今お茶を入れますからね」
靴を脱いだ宮森は
壁側には鏡台が設えてあり、化粧道具が並べられている。
奥の衣装掛けには、今日の演目で ふじ が着た衣装も掛けてあった。
宮森が珍し気にそれらを眺めていた所、ふじ が茶を盆に載せて運んで来る。
「宮森さん、今日はどうもありがとうございました。
初主演の舞台を観に来て頂いて、本当に嬉しいです」
「こ、こちらこそ、こんな場所にまで招待して頂いて、きょ、
個室で女性とふたりっきり、と云う場面で緊張し切っている宮森。
ふじ の顔を直視できなかったのか、鏡台の端に飾られている植物を
彼女の楽屋には、関係者から贈られたものらしい鉢植えが幾つか飾られていた。
見慣れない植物に興味を持ったのか、それとも間を持たせる為なのか、宮森は鉢植えの植物について尋ねる。
「ふじ さん、あの花は何という花なのですか?」
「あれは
東南アジアで発見されたのを、イギリスに持ち帰って品種改良したものだとか何とか。
もともと熱い地域の植物らしくて、日本で育てるのは大変だったみたいですね。
それが最近栽培方法が確立されたとか何とかで、
「へ~、そうだったんですか」
実は
そこの保養施設には、
宮森は胡蝶蘭の
「胡蝶蘭ですか、きっとお高いんでしょうね。
ふじ さんの実力と人気を物語ってますよ。
なのに、自分が贈ったのはチンケな花束で、申し訳ないです……」
「そんなことありませんよ宮森さん。
こんな私でも、宮森さんが勉強熱心な方だという事は判りますから」
「えっ?
それはどう云う……」
ふじ の顔が
「だって、今回頂いた花束には石竹が入ってませんもの。
花言葉、勉強されたんですよね?」
図星だったのだろう。
宮森は顔を真っ赤にして回答した。
「えっ?
ええ、そうなんです。
少し、その……」
しどろもどろで言葉が出ない宮森へ、ふじ の方から花言葉を尋ねる。
「白い花は玉簾ですね。
宮森さん、この花の花言葉は何ですか?」
「た、玉簾の花言葉は、『期待』です。
ふじさんがもっと活躍されますよう、この花を選んだ
「宮森さん、そんなに堅くならないで下さい。
こっちが緊張してしまいますから。
で、そっちの赤紫色のやつは日々草ですね。
これは私も知ってます。
たしか、『楽しい追憶』だったと思います。
合ってますか、宮森さん?」
「ふじ さん正解です」
「じゃあ、この小さくて黄色い花は何ですか?」
「それは大根草ですね。
花言葉は『
「おお、これまた大仰な花言葉ですね。
じゃあこの、一輪だけの
花言葉まではわかりません」
「はい。
透百合の花言葉は『飾らぬ美』だそうです。
ふじ さんは今回主演ですし失礼かとも思ったのですが、何となく花束に加えてしまいました。
御気を悪くされたのなら謝りますが……」
「気を悪くするなんてとんでもない!
宮森さんが私を応援して下さる気持ち、ちゃんと伝わってますよ」
「そ、そうですか。
お気に召して頂いて良かった……」
ふたりは花言葉の話題や今後の演目の事で盛り上がり、控室で小一時間を過ごす。
宮森が
「すっかり遅くなってしまいましたね。
自分はそろそろ帰らせて頂きます。
ふじ さんのこれからの活躍、楽しみにしていますよ」
「あっ、女の長話に付き合わせてしまってごめんなさい。
宮森さんとのお話が楽しかったもので、つい……」
ふじ も宮森に合わせて立ち上がろうとしたその時、宮森の
宮森は慌てて拾おうとするが、足が
ふじ が拾い、宮森へ手渡す。
「このオペラグラス、やっぱり持って来てたんですね。
わたしの中では、宮森さんといえばオペラグラスになっちゃってます。
これって変、ですかね?」
「こ、これはどうも……。
このオペラグラスを使い始めてから……その、仕事の時にも手放せなくなってしまって。
これって……変ですかね?」
「ふふっ。
宮森さんのお仕事は存じませんが、きっと変ですよ。
あははは……」
「や、やっぱり変なのかな。
は、はははは……」
オペラグラスの御蔭でひと笑い起こってくれた。
ふたりは和やかに別れの言葉を交わす。
「宮森さんの『期待』に応えるべく、『前途洋々』たる寅井 ふじ が、『飾らぬ美』をもって精進する事を約束します。
オペラグラスの君に!」
「自分は応援する事しか出来ませんが、ふじ さんの
次は、大舞台で演じる
もしその時が来たら、また
その時はどうか、『楽しい追憶』が出来る事を願っています。
オペラグラスの……自分に?」
笑い乍ら控室を離れる宮森を、ふじ は幾ばくか
◇
下宿への帰り道、特ダネを掴んだとばかりに明日二郎が食い下がっている。
明日二郎が普通の人間体で時代が時代なら、
『恐縮です!
リポーターの比星 明日二郎です!
え~、ミヤモリ リョウイチさん。
今回主演を務められた寅井 ふじ さんとは、いったいどういうご関係なんですか?
挙式は?
お子さんは?』
『子供はふたり以上で、最初は女の子がいいな……なんて言う筈ないだろ。
自分は ふじ さんが女優として活躍してくれさえすれば良いんだよ。
曲がり
若しかしてお前、ふじ さんの感情を読み取ったりなんか……してないよな?』
『(ギクッ!)えっ、え~とぉ……してません、多分!』
いま宮森の脳内に浮かんでいるのは、ブヨブヨした体節を必死に直立させ、三対の
実体は無いので姿勢の辛さは感じない筈だが、プルプルと
『はぁ~。
あれだけ何もするなと釘を刺しておいたのにお前って奴は……。
後で今日一郎に言い付けてやる』
『そんな~。
お前さんの為を想ってやったコトだ、許しちくりー。
表面意識の感情をチョットばかしナゾッただけだって。
記憶までは覗いてねーから。
それに何と云っても、あの子はお前さんにゾッコンだぜ。
モテ期到来、
もひとつおまけに、新婚さーん、いらっしゃ~~~い!』
『……自分からボロを出したな。
よし、比星 明日二郎に沙汰を言い渡す。
これから三日間、食事の感覚共有を停止する!』
『あっ、卑怯だぞミヤモリ。
カマかけやがって!
だから大人は信用できないんだ。
体表に散らばった眼球に涙を溜め込んで、無言の抗議を試みる明日二郎。
それを見かねた宮森は、ヤレヤレと云った風に語り掛ける。
『悪気は無かったみたいだし、今回だけ許してやるとするか。
だから泣くなよ』
『やった!
御奉行様の
あ、これにて~、一件落着~~~~~っ!
てなもんか』
『ん?
レロレロの分が有るから有罪判決は変わらんぞ』
『にゃ~~~~~っ、やっぱ大人は汚い~~~~~~!』
夕日も出ておらず冴えない帝都の喧騒。
曇天の暮れ空に宮森は溜め息を。
宮森の脳中に明日二郎は痛憤を。
それぞれを、想いのままに吐き出していた――。
[註*
公平、公正で人情を尊重した裁定の事だが、善く善く考えてみると判例無視と私情介入が
◇
オペラグラスの君に その六 了
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