第一節 煙草王の憂鬱
煙草王の憂鬱 その一
一九一九年七月
◇
帝居地下の御殿では、先程まで魔術結社恒例の乱交儀式が
儀式が終了し、儀式場と隣接した脱衣所兼簡易食堂へと向かう
その中に、
脱衣所兼簡易食堂の上座には、会員達の衣服が収められた
着替え終わった宮森は
その人物は日本人男性としてはやや小柄な宮森よりも
表情にも冴えが無く、心底疲れが溜まっているように見える。
しかし宮森の差し出す煙草の箱を見るや、
「
自分、
以前御挨拶したのですが、その時はまだ高貴な方々との応対に慣れていませんで、御無礼を働いてしまい申し訳ありませんでした」
「憶えとるよ。
多野 教授に可愛がられているようだね。
お若いのに難儀な事だ。
ああ、煙草ありがとう」
倉井は宮森から火を貰い、煙草を口に運ぶ。
倉井の表情が、煙と彼の心情との間で曇った。
「
煙草事業が国に乗っ取られてもう何年になるか。
儂も昔は煙草王なんぞと呼ばれ、
今はもう……。
ああ、
それにしても宮森 君、よく
苦労したんじゃないか?」
「ええ、そこそこの苦労はしましたけどね。
探せば在るもんです。
それに、
倉井さんさえ良ければ、今度持って来ますね」
「ああ、ぜひ頼むよ」
[註*
倉井は
その仕草は、煙草王と呼ばれた過去の栄光を懐かしむそれだった。
その心情を察したのか、宮森が言葉を掛ける。
「御顔の色が優れませんね。
もしや御病気か、何か心配事でも?」
「儂は病気でも何でもないんだが、娘がな。
生まれつき心臓が弱く、あと何年も持たんと医者からは言われとる。
それにここのところ事業が苦しい。
儂ももう年だし、
告白を聞いた宮森は、
「倉井さん、貴方は……いや、倉井 財閥は潰されます」
宮森からの宣告を聞いても、倉井の顔色は大して変わらなかった。
「……そんな事だろうと思っとったよ。
煙草で財をなしたまでは良かったものの、
宮森 君、君はそれを宣告する為に話し掛けたのかね?」
もう諦めたと言わんばかりの倉井に、宮森は意味深な笑みを浮かべ再度耳打ちする。
「実は自分、
その予定を利用すれば、倉井 財閥の消滅は
「そうか。
君は多野 教授のお弟子なんだから、
大昇帝 派と対立しているのは判るが、そんな都合のいい話が有るとは信じられん」
「しかしこのまま事業を展開しても絶対に勝てませんよ。
ですので、この機会に賭ける意義は有ると思います。
まあ、ここでは話せない事も多々ありますので、後日改めて御会い出来ませんでしょうか?」
倉井は迷う。
倉井 自身も、九頭竜会員として綺麗事では済まされない商売もやって来た。
組織内でのし上がる度、何人もの人間を破滅させて来たのである。
自身の才覚一つでここ迄の地位を築いた
倉井の迷いは消えた。
「分かった。
連絡先を交換しよう」
互いの連絡先を交換した後、倉井は座敷を出て行った。
その後ろ姿を見送る宮森。
顔は穏やかだが、その眼は倉井に話し掛けた時とは別人の
宮森は脳中に住み着く
◇
一九一九年七月 宮森の下宿先
◇
下宿の縁側に着流し姿で座り込み、
宮森もそうだが、女将は一段と
未だ梅雨明けしない空を恨めしそうに眺める女将。
辺りにはジットリとした
理不尽な不満は宮森へと向かった。
「あ~、蒸し暑いわ。
ここまで蒸し暑いのは宮森さんの
お蔭でお魚が腐りやすいわ」
「どう考えたって自分の所為じゃありません。
毎年の事じゃないですか。
これが四季と
確かに、昨年より蒸し暑い気もしますけど」
しかし何かに気付いたのか、突然晴れやかな顔へと変わる。
「あ、そうそう。
あたしのひいお祖母さんが言ってたんだけどね。
ひいお祖母さんが子供の頃に、夏の無い年があったんだって。
夏の無い年か~、さぞ涼しかったんでしょうね~」
「夏の無い年……それホントですか?
女将さん、出来れば何年ごろか判ります?」
食い気味に
「ひいお祖母さんの若い時の年号は何だったかしらね……。
そう、確か
ひいお祖母さんが六つの時だから……文嘉……え~っと、一三年だわね。
ちょうど百年ぐらい前になるんじゃない?」
「今が西暦一九一九年だから、だいたい一八一六年と云う事になりますね。
その時代に夏の無い年が有ったと。
ひいお祖母さんのお国では、
宮森が食い付いて
「あたしのひいお祖母さんは
日が照らないし雨ばっかりだったって。
米が穫れないわけだから飢え死にも沢山でたし、当然いろんな所で
「なるほど。
そんな出来事が約百年前に……」
女将の話に思う所が有ったのか、宮森が脳中の明日二郎に話し掛けようとした
「
玄関から来客の声がする。
宮森が慌てて立ち上がり、女将に代わって出迎えた。
「御免下さい。
こちらに宮森さんは……ああ、宮森さんですな。
どうも、倉井です」
来客は倉井だった。
ひと目で安物と判るカンカン帽に
「倉井さん自ら
どうぞ御上がり下さい。
女将さ~ん、自分にお客さんだからお茶お願いしますね~。
では、自分の部屋は二階ですので」
宮森は倉井を自室へ案内すると
女将が
「宮森さん、あの方はどなたなの?」
「ああ、このまえ
煙草好きの方らしく、意気投合しましてね。
そんなに長くは掛からないと思いますから、女将さんは夕飯の買い物にでも行って来て下さい」
女将にそう言い残し、宮森はそそくさと自室へ向かった。
◇
煙草王の憂鬱 その一 了
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