第一節 煙草王の憂鬱

煙草王の憂鬱 その一

 一九一九年七月 帝居ていきょ地下 御殿ごてん





 帝居地下の御殿では、先程まで魔術結社恒例の乱交儀式がもよおされていた。


 儀式が終了し、儀式場と隣接した脱衣所兼簡易食堂へと向かう九頭竜会くずりゅうかいの上級会員達。

 その中に、宮森みやもり 遼一りょういちの姿もった。


 脱衣所兼簡易食堂の上座には、会員達の衣服が収められた籐籠とうかごが並び、下座には宴会用の長机テーブルが置かれ、握り飯や煮物などの食事と酒が用意してある。


 着替え終わった宮森はおもむろ煙草たばこを取り出し、隣の人物に差し出した。


 その人物は日本人男性としてはやや小柄な宮森よりもさらに小柄で、頭髪もだいぶ後退している五十がらみの中年。

 表情にも冴えが無く、心底疲れが溜まっているように見える。


 しかし宮森の差し出す煙草の箱を見るや、わずかに生気を取り戻した。


倉井くらい 平吉へいきちさん……ですよね。

 自分、多野たの 教授の伝手つてで昨年入会を果たしました、宮森 遼一と申します。

 以前御挨拶したのですが、その時はまだ高貴な方々との応対に慣れていませんで、御無礼を働いてしまい申し訳ありませんでした」


「憶えとるよ。

 多野 教授に可愛がられているようだね。

 お若いのに難儀な事だ。

 ああ、煙草ありがとう」


 倉井は宮森から火を貰い、煙草を口に運ぶ。

 倉井の表情が、煙と彼の心情との間で曇った。


HEROINEヒロインか、懐かしい味だ……。

 煙草事業が国に乗っ取られてもう何年になるか。

 儂も昔は煙草王なんぞと呼ばれ、随分ずいぶん羽振はぶりが良かったんだがな。

 今はもう……。

 ああ、辛気しんき臭い話はよそう。

 折角せっかくの煙草が勿体もったいない。

 それにしても宮森 君、よくHEROINEヒロインを見付けられたね。

 苦労したんじゃないか?」


「ええ、そこそこの苦労はしましたけどね。

 探せば在るもんです。

 それに、HEROINEヒロインだけじゃなくSUNSETサンセットも持っているんですよ。

 倉井さんさえ良ければ、今度持って来ますね」


「ああ、ぜひ頼むよ」


[註*HEROINEヒロインSUNSETサンセット=倉井 商会が煙草専売法施行以前に発売していた煙草(作中での設定)]


 倉井は濾過部分フィルターすれすれまで煙草を吸い切り、名残惜なごりおしそうに灰皿でみ消す。

 その仕草は、煙草王と呼ばれた過去の栄光を懐かしむそれだった。


 その心情を察したのか、宮森が言葉を掛ける。


「御顔の色が優れませんね。

 もしや御病気か、何か心配事でも?」


「儂は病気でも何でもないんだが、娘がな。

 生まれつき心臓が弱く、あと何年も持たんと医者からは言われとる。

 それにここのところ事業が苦しい。

 儂ももう年だし、娘婿むすめむこに残してやれる分が有るといいんだが、それも難しいかも知れん……」


 告白を聞いた宮森は、そばに人が居ない事を確認してから倉井に耳打ちする。


「倉井さん、貴方は……いや、倉井 財閥は潰されます」


 宮森からの宣告を聞いても、倉井の顔色は大して変わらなかった。


「……そんな事だろうと思っとったよ。

 煙草で財をなしたまでは良かったものの、ついでに手を染めた黒蓮こくれんの密輸で大昇帝たいしょうてい 派の逆鱗に触れてしまったからな。

 宮森 君、君はそれを宣告する為に話し掛けたのかね?」


 もう諦めたと言わんばかりの倉井に、宮森は意味深な笑みを浮かべ再度耳打ちする。


「実は自分、根源教こんげんきょう入門いりかど先生とも面識が有りまして、を一部教えて頂いたのです。

 その予定を利用すれば、倉井 財閥の消滅はまぬがれるかと……」


「そうか。

 君は多野 教授のお弟子なんだから、瑠璃家宮るりやのみや 派にせきを置いているんだな。

 大昇帝 派と対立しているのは判るが、そんな都合のいい話が有るとは信じられん」


「しかしこのまま事業を展開しても絶対に勝てませんよ。

 ですので、この機会に賭ける意義は有ると思います。

 まあ、ここでは話せない事も多々ありますので、後日改めて御会い出来ませんでしょうか?」


 倉井は迷う。


 倉井 自身も、九頭竜会員として綺麗事では済まされない商売もやって来た。

 組織内でのし上がる度、何人もの人間を破滅させて来たのである。


 裸一貫はだかいっかんまではいかないが、倉井 自身も平民の出。

 自身の才覚一つでここ迄の地位を築いた自負じふが有ったのだろう。


 倉井の迷いは消えた。


「分かった。

 SUNSETサンセットも吸いたいしな。

 連絡先を交換しよう」


 互いの連絡先を交換した後、倉井は座敷を出て行った。


 その後ろ姿を見送る宮森。

 顔は穏やかだが、その眼は倉井に話し掛けた時とは別人のごとく冷たい。

 御霊分みたまわけの術法で人格を切り替えたうら 宮森である。


 宮森は脳中に住み着く明日二郎あすじろうに話し掛け、これからの作戦を討議するのだった――。





 一九一九年七月 宮森の下宿先





 下宿の縁側に着流し姿で座り込み、女将おかみと一緒に茶をすする宮森。

 宮森もそうだが、女将は一段と手拭てぬぐいが手放せない季節に入った。


 未だ梅雨明けしない空を恨めしそうに眺める女将。

 辺りにはジットリとした湿しめただよっているが、その原因が自身のふくよかな体格に在るとはつゆ知らず。

 理不尽な不満は宮森へと向かった。


「あ~、蒸し暑いわ。

 ここまで蒸し暑いのは宮森さんの所為せいだわ。

 お蔭でお魚が腐りやすいわ」


「どう考えたって自分の所為じゃありません。

 毎年の事じゃないですか。

 これが四季とうものですよ。

 確かに、昨年より蒸し暑い気もしますけど」


 みずからが多分に放出する湿り気に当てられ、半ば放心していた女将。

 しかし何かに気付いたのか、突然晴れやかな顔へと変わる。


「あ、そうそう。

 あたしのひいお祖母さんが言ってたんだけどね。

 ひいお祖母さんが子供の頃に、夏の無い年があったんだって。

 夏の無い年か~、さぞ涼しかったんでしょうね~」


「夏の無い年……それホントですか?

 女将さん、出来れば何年ごろか判ります?」


 食い気味にいて来る宮森に驚きながらも、女将は思い出の引き出しを開けた。


「ひいお祖母さんの若い時の年号は何だったかしらね……。

 そう、確か文嘉ぶんか、文嘉だったわ。

 ひいお祖母さんが六つの時だから……文嘉……え~っと、一三年だわね。

 ちょうど百年ぐらい前になるんじゃない?」


「今が西暦一九一九年だから、だいたい一八一六年と云う事になりますね。

 その時代に夏の無い年が有ったと。

 ひいお祖母さんのお国では、さぞかし大変だったんでしょうね」


 宮森が食い付いてきょうが乗って来たのか、女将は思い出の引き出しを精一杯こじ開けに掛かった。


「あたしのひいお祖母さんは相模さがみの出なんだけど、その年は米がれなかったらしいわ。

 日が照らないし雨ばっかりだったって。

 米が穫れないわけだから飢え死にも沢山でたし、当然いろんな所で一揆いっきも起こったって」


「なるほど。

 そんな出来事が約百年前に……」


 女将の話に思う所が有ったのか、宮森が脳中の明日二郎に話し掛けようとした矢先やさき、下宿の庭先に人影が見えた。


御免ごめん下さい」


 玄関から来客の声がする。


 宮森が慌てて立ち上がり、女将に代わって出迎えた。


「御免下さい。

 こちらに宮森さんは……ああ、宮森さんですな。

 どうも、倉井です」


 来客は倉井だった。


 ひと目で安物と判るカンカン帽にすすけた着流し。

 つやの有る材でしつらえられた西洋杖ステッキだけはそこそこの品らしい。


「倉井さん自ら御出おいでになるとは。

 どうぞ御上がり下さい。

 女将さ~ん、自分にお客さんだからお茶お願いしますね~。

 では、自分の部屋は二階ですので」


 宮森は倉井を自室へ案内するとぐに取って返し、女将がれてくれた茶を盆に乗せ自室へ向かおうとしている。


 女将が怪訝けげんな顔で宮森に尋ねた。


「宮森さん、あの方はどなたなの?」


「ああ、このまえ浅草あさくさで会った御仁ごじんです。

 煙草好きの方らしく、意気投合しましてね。

 偶々たまたま自分が昔の煙草を持ってたもんで、見せる約束してたんですよ。

 そんなに長くは掛からないと思いますから、女将さんは夕飯の買い物にでも行って来て下さい」


 女将にそう言い残し、宮森はそそくさと自室へ向かった。





 煙草王の憂鬱 その一 了

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