ヴーアミタドレス山より その三
一九一九年六月 青森県 雪中行軍遭難記念碑前
◆
『……ッッッブオーーーーーーーーーーーーォォォォン!』
入門の悪口と共に送信された電磁波が、井高上 大佐周囲の空間を振動させていた。
その電磁波に捕らえられ、自らの意に反して宙に浮く井高上。
風天・自在法を駆使し、空中制御可能かどうか試みる。
⦅……確かに、風を起こすと暫くは自由が利くようだ。
だが、風の操作を止めた途端もとに戻ってしまう。
これでは常に風を起こしていなくてはならない。
矢張り入門の密度操作か。
この状態を無効化するには、吾輩も密度操作するしかない。
そうでもしないと、身体が自動的にヴーアミタドレス山に向かって引っ張られる。
とてもではないが、戦闘に耐え得る霊力を供出する事は出来んな。
仕方ない、後三年ほどシベリアに引き籠もっているしかないか。
それにしても、風に乗らずしてシベリアに帰れるとは。
大した皮肉である……⦆
井高上が風天・自在法を止めると、彼の身体が北極点方向へと引っ張られる。
彼の残霊力では、
⦅惜しかった、実に惜しかったぞ吾輩。
でも、まあいいか♥
瑠璃家宮が取り引き材料にと持ち出した新型爆弾の理論は使える。
それとは別に、二十数年後に
青森の小さな結界一つ失った所で、
厄介なのは、入門が吾輩に仕掛けた術式だ……。
後三年は日本に戻れんらしい。
効果対象を吾輩のみに、持続期間を三年ほどに絞った結果か。
しかし遣りようは有る。
邪念を供給する結界など、人間さえ居ればどこにでも造れるのだからな……。
大吾、ドンマイ!⦆
地上からは、豆粒と
相変わらずの
「瑠璃家宮 派の諸君、多大な犠牲を出し乍らも良くやった!
吾輩はひと先ず引き揚げるが、次に会う時は容赦せん。
その時を楽しみにしているぞ!
あと宮森くーん、吾輩は君のこと諦めてないからー。
いつでもいらっしゃーい。
マイハニー史郎と一緒に待ってるからねー。
ではロシアより愛をこめてー……
そして最後にー。
髭は、いいモノだーーーああああああぁぁぁぁぁぁ……」
[註*
その寒波で雪中行軍遭難記念碑前の原っぱは霜に覆われ、一平方キロメートルの地表が凍結した。
井高上からの嫌味を
宮森と宗像は闘いの余波で放心していたが、多野は結界の張り直しに掛かっていた。
井高上に挑んで散って行った海軍陸戦隊と魔術師達は仕方ないとして、何の関係も無い民間人が二百人弱。
彼らの恐怖と苦痛、命までもが結界として利用される事となった。
結界の張り直しが終わり、多野は石化したままだった陸戦隊統率班員を始め、犬やその飼い主達を元に戻す。
統率班員は犬飼い達を脅し、田茂木野村までの荷運び任務に就かせた。
今はもう居ない馬が引いていた荷車には、なんと寒冷地用の橇が積んである。
井高上との会敵を予測した多野が、犬橇用の犬と併せて用意していたのだ。
あまりの用意周到さに、宗像と宮森、そして明日二郎さえも
多野は全て知っていたのだ。
〈影〉から瑠璃家宮に新型爆弾の理論が供与されていた事。
その理論と新型爆弾で将来虐殺されるだろう人々から生まれる邪念を出汁に、ハイパーボリア大陸への往復切符を手に入れた事。
ハイパーボリア文明の英知を引き出せる入門が今日一郎に同道していた事。
井高上との会敵さえも、仕組まれたものだったのである――。
◆
この後、大昇帝 派は極東で新たな結界を張る事に成功した。
翌年の一九二〇年(大昇九年)三月から五月にかけて勃発した、俗に云う〖
この事件では、大昇帝 派と繋がりのある赤軍(後のソビエト連邦陸軍)が大虐殺を
尼港の住民、凡そ六千名が惨殺された。
その内、日本人犠牲者の総数は判明しているだけで七三一名。
犠牲者は老若男女を問わず、略奪や女性への強姦など
この虐殺によって、大昇帝 派は青森の結界を失った事の穴埋めに
尼港事件の裏に井高上が関わっていたのは勿論、〈エメラルド・ラマ〉の命令であった事は云う迄もない。
この事件を言い訳にして、帝国陸軍のシベリア出兵は一九二二年の一〇月まで続く事になり、その後も一九二五年まで北樺太(サガレン州)を保障占領する事となった――。
◆
田茂木野村へと犬橇の列が向かう。
その列を眺め乍ら、宮森は
今回の闘いだけで大勢の民間人が亡くなり、犬橇を駆る犬飼い達も後で口封じされる。
多野の術式により、石化状態であっても目は見え耳も聞こえてしまう所為で、闘いの一部始終を見てしまっていたからだ。
宮森 自身は命拾い出来たが、その度に何の関係も無い人々に犠牲が出る事を想うと、罪悪感で胸がはち切れそうになる。
宮森は罪悪感を少しでも薄めようと、脳中の友人に慰めを求めた。
『明日二郎、今回も何とか助かったよ。
さっきの辞世の句は取り消す』
『おう。
オニイチャンとイリカドがやってくれたな。
なんか北極に行ってたみてーだし、その所為で連絡つかなかったんかな?
ま、いいや。
後で土産話でも聞かせて貰おう。
それにしても、お前さんといると退屈しねーっつうか、ヒヤヒヤしっぱなしだぜ……』
『それは済まない。
でも、井高上 大佐の颶風殺を破った作戦は良く出来てたろ?』
『ああ。
お前さんが理科好き郷土史家で強運の持ち主だってコトもな。
それは素直に認めるぜ。
で、青森市に戻ったら二、三日滞在すんだろ?
ウマイもんたらふく食わせて貰うかんなー。
あっ、女将への土産もなんか買ってこうぜ。
いちご煮、けの汁、だまこ汁~♪
昆布
『明日二郎、今お前が挙げた食べ物な。
旬から外れて食べられないもの多数だぞ』
『ノオオォォォォォォ!
ならば、ならば、だまこ汁だけでもオオオオォォォォ……』
宮森の脳中で響くのは、明日二郎の痛嘆と執念とが入り混じった叫び。
普段は煩わしく思う所だが、今の宮森にはそれが有り難い。
ほんの僅かでも罪悪感を薄めさせてくれた明日二郎に礼を言いつつ、宮森は青森の地を後にした。
夕陽に照らされる凍てついた平原の中、犬橇とそれに続く軍人達が列をなして進む。
それは、十七年前の雪中行軍を嫌でも連想させる眺めであった。
この地で起きた今回の闘いと十七年前の惨劇。
歴史の闇に葬られた事件を語る事が出来るのは、山と風の神……いや、山と風の
◇
ヴーアミタドレス山より その三 了
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