籠の中 その二

 一九一九年六月 帝都 小石山こいしやま植物園内保養施設





 ここ小石山植物園は、徳河とくがわ幕府時代に薬草園として始まった。

 その後敷地内に養生所ようじょうしょが開設され、主に貧民達への治療行為を施していた場所である。


 盟治めいじに入ってからは維新政府により一旦は廃止されたものの、その価値を認めた帝都ていと大学が買い取り、現在は薬草、薬品などの研究所兼施療施設になっていた。


 帝室専用自動車が敷地に入るや否や、大勢の職員と学生達が出迎える。

 運転手が減速すると、車内の瑠璃家宮が挙手し礼を返した。


 車はそのまま敷地内を進み、保養施設へと行き当たる。

 瑠璃家宮 一行が降車した場所は、保養施設内に在る療養所の一病棟。


 一行の内訳は、瑠璃家宮と頼子、そしてかなり小柄な女性がひとり。

 洋装の瑠璃家宮と頼子とは対照的に、その人物は単衣ひとえつむぎ姿。


 着用している紬は白茶色しらちゃいろ小豆色あずきいろの地味な縦縞たてじまで、ともすれば貧相に見える。

 然も女性は小柄な上に痩せぎすで、根岸色ねぎしいろ半幅帯はんはばおびでさえも不釣ふついだ。


 口元こそ隠してはいないが、頭頂から肩までを千草鼠色ちぐさねずいろ御高祖頭巾おこそずきんで覆っている。

 季節外れもいい所だが、人目を避けたい理由が有るのかも知れない。


[註*白茶色しらちゃいろ=白みがかったごく薄い茶色]


[註*根岸色ねぎしいろ=緑がかった茶色]

 

[註*千草鼠色ちぐさねずいろ=くすんで青緑がかった灰色]


[註*御高祖頭巾おこそずきん=頭や顔を包む婦人用の頭巾で、防寒や顔を隠す為の物。

 忍者が顔を隠すアレ]


 一行が病棟内へと入る。

 療養所内は、多種多様の薬草、薬品の匂いで満たされていた。

 通常の病院とは又ひと味違う匂いの中、一行はある病室へと辿たどり着く。


 頼子が付き添っていた人物に声を掛けた。


「澄さん、私と殿下は暫く外でお待ちしています。

 一時間程は面会されて構いませんので」


「……はい……」


 恐ろしくか細い声を出した人物が病室へ入る。





「お母さん……」


 病室に入った女性を白面はくめんの少年が迎えた。


 母と呼ばれた女性が頭巾を取る。

 何の事はない動作なのだが、どこかチグハグで危なっかしい印象が有った。


 迎えた少年の右手を、女性は両手できつく包む。


 チグハグの理由が判明した。

 彼女は、それぞれの腕の長さが違う。

 一〇センチメートル程だろうか、左腕より右腕が長い。


「坊や、元気にしてた?

 頭は痛くない?」


 呼び掛ける母と、素直に頷く子。


 今日一郎も色白だが、その母は更に白い……と云うより別種の白さだ。

 そう、比星 今日一郎の母こと比星 澄は白皮症はくひしょうなのである。


 肌や髪が白いだけでなく、虹彩こうさいも色素が薄い。

 彼女の瞳は、撫子色なでしこいろをしていた。


[註*撫子色なでしこいろ=柔らかい赤紫色]


 心底嬉しそうに、母の華奢きゃしゃな胸へと頬を摺り寄せる今日一郎。


 澄も、そのか細い腕で我が子を抱き止めた。


「ごめんなさいね坊や。

 あなたにばかり辛い思いをさせて。

 もう直ぐ新しいお薬が出来るから、それまでの辛抱よ」


「ぼく、頑張る。

 頑張ってお母さんと一緒に暮らすんだ。

 お薬なんかへっちゃらだよ」


「坊やは強いわね。

 男の子だもん、早くお外で遊びたい……わよね……」


 たまらず嗚咽おえつを漏らした澄。


 籠の中の親子は、どちらからともなく只、泣いていた――。





 一時間ほどだが、比星 親子は水入らずの時間を過ごす事が出来た。

 だが不意に病室の扉が叩かれた途端、親子の掛け替えのない時間は終わりを告げる。


 外には頼子が来ており、澄を病室外へと連れ出した。

 ふたりは病棟を離れ、施設本館へと出向く。


 通された応接室には、既に瑠璃家宮が待っていた。

 頼子が最敬礼し、瑠璃家宮の横にはべる。


 温容な眼差しで澄を眺め、鷹揚おうような声色で澄に語り掛ける瑠璃家宮。


「澄 殿、子息とは存分に触れ合えただろうか。

 本来ならば親子共に過ごせれば一番良いのだが……。

 失敬しっけい、それこそ叶わぬ願いであったな。

 許してくれ」


 許してくれと言う割には、瑠璃家宮に悪怯わるびれる素振りは一切ない。

 彼が続ける。


「これから子息に重大な仕事を任せたい。

 いま我らは大事な局面を迎えていてな。

 この局面を乗り切るには、子息の力が必須。

 いささか急な話だが、了承してはくれまいか?」


「こちらが断れないと知った上で、貴方様は御尋ねになるのですね。

 言う事を聞かねばは寄越さぬと仰るのならば、こちらはぐうのも出ません。

 御好きになさって下さい……」


「これで交渉成立だな。

 澄 殿、礼を言う。

 仕事が上手く行った暁には、其方らに纏まった時間を与えたい。

 では、子息の活躍を期待する」


 退室しようと席を立った瑠璃家宮に、澄は諸手で掴み追いすがった。


 頼子が引き離しに掛かる。


「比星 澄、殿下から離れなさい!」


 頼子の膂力りょりょくかなう筈もなく、易々やすやすと引き剥がされる澄。

 しかしその眼差しだけは、目標を変えずに捉えていた。


 澄が瑠璃家宮に向かって問い掛ける。


「瑠璃家宮 様。

 薬は、新薬の開発はどうなっているのですか!

 本当に進んでいるのですか?

 あの子は……本当に助かるのですか⁉」


「アメリカやヨーロッパで疫病が蔓延している事を澄 殿は知るまい。

 実はな、その疫病は邪念をき集める為だけでなく、其方の息子の治療法を見付ける為でもあるのだよ。

 既にこの国でも蔓延の兆しが現れている。

 組織が弾き出した数字によれば、最低でも全世界で五千万人以上が犠牲になる見込み。

 其方の息子の為に何千万もの人々が死ぬ事になるのだ。

 光栄に思い給え……」


「あの子が助からなかったら、その時は……」


 澄の声音はあくまでも弱く小さいものだったが、子を想う母としての決意に満ちている。


 そしてその決意は、絶対的な暗黒に対する、一筋の光明にも思えた――。





 澄との問答を終えた瑠璃家宮と頼子は、澄をこの場に残し再び病棟へと足を向ける。


 今日一郎の病室に辿たどり着き頼子が扉を叩くも、返答が無い。

 瑠璃家宮が頷いたのを合図に、強行突入する頼子。


 そこに、白面の少年は居なかった。


 居たのは、あおい少年――。


 青白いのではない。

 文字通り、のだ。


 少年は頭を両手で抑え、苦悶の表情を見せる。


「ああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!

 ゆ、許さない、ぼ、僕の……父、祖……を殺……す……」


 苦しみの余り、痙攣けいれんうめき始めた少年。

 意識障害なのだろうか。


 その様子を観た頼子は、部屋に備え付けられている抽斗ひきだしから注射器と薬液を取り出す。

 投与準備が出来た所で、手早く少年に静脈注射した。

 元看護婦であるからか手際が良い。


 処置が終わると、少年を抱くと云うよりは、自身の身体で抑え付ける頼子。


 少年は肌はおろか、口内粘膜や舌の色までも蒼色だった。


 瑠璃家宮が頼子に命じる。


「薬の効果が短くなっているな。

 これでは、後二十年も持つまい。

 の接触は天啓てんけいであったか……。

 頼子、余は施設長に会いに行く。

 殿までそこで押さえておれ」


「畏まりました。

 御任せ下さい」


 瑠璃家宮が退室し、再び戻って来るまでおよそ一五分を要した。


 瑠璃家宮が病室に入る頃には少年の痙攣は収まっており、呼吸もだいぶ落ち着いている。

 そして驚くべき事に、徐々に少年の肌が赤みを帯び始めたのだ。


 こうして、白面の少年こと帝居地下神殿の宮司、比星 今日一郎が表れる――。


 今日一郎が宮森に言っていた、『母の精神こころを少しでも長く持たせる為には、九頭竜会が秘密裏に製造している薬物が必要だ』との言は偽り。

 真に薬物が必要なのは、今日一郎 自身だったのである。


 そして先ほど見せた今日一郎の変容。

 これには比星 一族の、今日一郎とその家族にまつわるおぞましくも悲しい秘密が関係していた。


 だがその秘密が明かされるのは、まだ先の事である――。





 異常から元に戻った今日一郎と瑠璃家宮が挨拶を交わした。


「御目覚めのようだな宮司殿。

 目覚めついでに、一つ仕事を頼まれてはくれまいか。

 報酬は弾むぞ」


 いつもの冷静さを取り戻した宮司こと今日一郎が、瑠璃家宮と対等に口を利く。


「これ以上僕に何をしろと言うんだ?

 眷属の召喚なら僕じゃなくともいい筈。

 それとも、別の邪神を降ろすのに相応ふさわしい適格者でも見付かったのかい?」


「降霊ではなく、ある場所への転移を頼みたい」


「どこだ?」


 今日一郎の問いに、思わず口元をほころばせる瑠璃家宮。


 その口元からもたらされた場所は、闇の勢力の間で最も神聖だとされる場所の一つ。


「宮司殿に転移してほしい場所、それは、北極点だ――」





 籠の中 その二 了

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