第五節 白い地獄、八甲川山

白い地獄、八甲川山 その一

 一九一九年六月 青森県青森市





 瑠璃家宮 派の人工降雨装置が日本各所で全開稼働している所為せいで、雲一つ無い晴天となった青森市。


 一行が歩き始めて直ぐ、地元の人足達がぶつくさ喋っているのを宮森は耳にする。

 内容はこうだ。


わーさ俺さ、この荷運びの仕事、な~んか気が進まねい進まないんだよな。

 だってさ、あの場所通るんだべな?

 気持ぢわりぇよな……」


「仕方ない

 それどもおめお前、港で荷下ろすするのが?」


そったのそんなの嫌だべさ。

 折角、こったこんなに楽で日当のいい仕事見づがったばって見つかったのに……。

 しかも仕事先で湯さ温泉にへえれで、宴会まで付いでらんだべな付いてるんだよな

やっぱりガクジュツキカンは違うべ」


おめお前、学術機関が何なのがわがってねべな解ってないな

すたばってだけど、よりによってあの場所があ……。

わー俺のの推測だばってだけど、あの場所通るはんでのでたけぇ日当が出でらんでねのがなでているんじゃないのかな

 まあ今は真冬でもねすないしも化げで出るこたぁあらねあるまい


 この長閑のどかな風景に浸っているからか、行列の端々から聞こえる冗談や悪態。


 荷馬車馬の他に何故か犬も数十匹加わっており、犬好きの人足達とたわむれていた。


 だが、宮森にそれらの場景は視えていない。

 彼が思い描いているのは、十七年前の光景。


 八甲川山はっこうせんざん雪中せっちゅう行軍遭難事件であった――。





 その事件は、一九〇二年(盟治三五年)一月下旬に起きた。


 神日本帝国陸軍第はち師団の歩兵第連隊が、青森市街から八甲川山の田代新湯たしろしんゆを目指す雪中行軍中、猛吹雪と豪雪により遭難したのである。

 結果、行軍に参加した軍人二百十名中の百九十九名が死亡した。


 この事件は国内で大々的に報じられ、事件の新聞報道から僅か二週間ほどで、事件を再現した演劇までもよおされる騒ぎとなる。


 この遭難事件を受け、帝国陸軍は雪中行軍の研究を強化。

 研究成果は日露戦争に活かされた、とされている。


 後の研究にいて、天候不順や準備不足、指揮系統の混乱が遭難の原因だとされたが、真実は違った。

 この事件は、壮大な生贄儀式だったのである。


 この事件で生き残った軍人のひとりが、井高上いたかうえ 大吾だいご 中尉。

 後の帝国陸軍大佐である。


 大昇帝 派の魔術師だった彼は、この壮大な生贄儀式を密かに考案。

 自らも行軍隊に参加し、見事大成功を収めたのである。


 組織からその功績をたたえられた井高上は大出世し、現在は大昇帝 派の実質的頂点トップとして君臨する事となった。


 当時の井高上 中尉がいかにして歩兵第伍連隊を白い地獄へ導いたのか、大まかにではあるが語っておく必要が有るだろう――。





 一九〇二年一月 青森県 青森連隊駐屯地





 行軍前



 一月一八日に行なわれた田茂木野村たもぎのむらまでの事前偵察の後、参加者の基準や行軍の詳細が発表されたのが一月二一日。

 出発の日取りは一月二三日なので、下士卒かしそつにはたった二日しか猶予が無い事になる。


[註*下士卒かしそつ=下士官と兵の事]


 この間に糧食や燃料の調達、調理器具と露営資材などの積載作業を全てこなさなければならない。

 個人の服装、携行品などの準備は二二日夜に持ち越され、全ての下士卒は準備不足のまま雪中行軍に参加する。


 隊員達、特に下士卒の服装に至っては、冬の雪山を踏破するには劣悪過ぎる物だった。

 以下に例を挙げる。


■〖特務曹長(准士官)以上は毛糸やフランネル素材の冬服一式〗


■〖下士卒は毛糸の外套がいとう二着に普通軍服一式〗


■〖下士卒の下着素材は木綿で、汗を吸収すると肌に張り付く物〗


■〖雪沓ゆきぐつ藁沓わらぐつ)も支給されたが、殆どの隊員が靴下か足袋たびに直接履いていた〗


 これら服装の問題点は、後の行軍に大きな影響をもたらす事になった。


 報告書には記されていない事柄も在る。

 二二日の夜、将校団が壮行会めいた宴会を催していたのだ。

 この不可解な宴会により、体調が万全ではない状態で多くの将校が行軍に臨む破目はめになる。


 そう、壮行会は死出しでの宴となったのだ。


 行軍計画自体も穴だらけである。

 以下に例を挙げたい。


■〖一月一八日に行なわれた事前偵察では、途中の田茂木野村までしか行っておらず、誰も目的地である田代新湯までの道のりを知らなかった〗


 それゆえに、到着時刻も示されていない。


 当時八甲川山の詳細地図は無かったとされ、報告書作成の為に初めて詳細地図が作られた。


 基準となる到着時刻が定まっていない上に地図まで無かったのだから、どれほど杜撰ずさんな計画だったかがうかがえる。





 一九〇二年一月二三日 青森県 青森連隊駐屯地





 行軍開始



 この日、兵卒は午前四時半に起床し準備に取り掛かる。


 当日の天候は薄曇り。

 西の風、最大風速一・三メートル。

 気温はマイナス六・七度。


 この寒さの中で、隊員達は大隊長や連隊長の長々とした話を一時間近く聞かねばならなかった。

 出発前からして体力を削られたのである。


 午前六時五五分。

 帝国陸軍第捌師団の歩兵第伍連隊が、田代新湯を目指し駐屯地を出発。

 前日までの降雪で、積雪は約九〇センチメートル。


 報告書には『出発してから暫くは、平地の雪道に踏み跡も在り進行しやすかった』、『次第に踏み跡が無くなり雪踏ゆきぶみ隊を先頭にしたが、難儀では無かった』とあるが、これは虚偽の報告である。

 最初の休憩地点である幸畑村こうばたむらに着いた時点で、そりく輸送員達は体力を消耗していた。


 隊は午前九時半頃に田茂木野村へ到着する。

 結果として、ここで隊は登山案内人ガイドを雇わず八甲川山へと向かう事となった。


 この時の悶着の様子は、新聞各社で違いが有る。

 以下に例を挙げたい。


■〖田茂木野村民が隊の積雪期の登山能力を心配し、登山案内人ガイドとして同行を提案したのだが却下された、との説〗


■〖ここらの地域では一月二三日(旧暦一二月一四日)は山の神の日とされ、必ず荒天になるので行軍隊にとどまるよう諫言かんげんした、と云う説(太陰太陽暦は盟治五年以前に何度か改訂されており、正確な日時は今以て不明)〗


 真実はどうなのか。

 実は、同県の平内町ひらないまちで教員をしていた男性がつづった日記によると……


■『一月二一日火曜日。この地域では山の神の日と云うらしい。村民一同仕事は休み。もちき酒をみかわして、歌や踊りにきょうじていた』


 ……とある。

 詰まり、一月二三日は山の神の日ではなかったのだ。

 では、当日はどうだったのか。


 村民は、行軍隊に近寄りもしなかったそうである。

 それは何故か。

 事件後に村民を問いただした所によると……


■『行軍隊には近寄るなと厳命された』


 そう、村民は語る。

 では誰に厳命されたのか。


 山の神に、である。


 又、平内町で教員をしていた男性の同日記には……


■『祭りが進み興が乗って来ると、何やらおかしな唄を村民が唄い始めた。「シンデレラ」とか「兵隊さん」などの語句が混じっているように聞こえる。シンデレラとはシンダレラの事だろうか? 祭り唄ではなく、村人が適当に作った唄なのか?』


 とある。


[註*シンダレラ=【西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ奇譚】 一九一一年発表 宗像 藤白 著 丸山書房 刊 が国内初出(作中での設定)]





 白い地獄、八甲川山 その一 了

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