白い地獄、八甲川山 その二

 一九〇二年一月二三日 青森県田茂木野村





 山の神の悪戯いたずらなのか、隊は無人の登山路を行軍する羽目になってしまった。

 重い荷物を載せた橇での積雪中運搬。

 加えて登山なのである。

 大層な重労働だったろう。


 この時期の雪はいわゆる粉雪パウダースノー

 圧雪あっせつしても固まらず、歩けば足をとられる。


 加えて股まで雪に埋まっている状況。

 橇は一向に滑らず、只の重い荷物に成り果てていた。

 そう、深雪ふかゆきでは橇が全く役に立たなかったのである。


 田茂木野村から小峠ことうげまでの行進で、橇の輸送員に本格的な疲れが出始めた。

 小峠で隊は大休止だいきゅうし

 昼食とする。


 だが、飯骨柳はんこつりゅうに入れた米飯と増加食の餅は共に凍結してしまっていた。

 そう、水分を含んだ食物は全て凍結しており、隊員達は殆ど食事を取れなかったのである。


[註*飯骨柳はんこつりゅう飯行李めしごうりとも呼ばれる。

 弁当箱の一種で主に米飯を入れる。

 竹や柳などを編んで作られ、持ち前の吸湿性と通気性で米飯の鮮度を保つ。

 やなぎ製のものは防虫効果も期待できるが、現在ではメッチャ高価]


 橇を曳行えいこうしていた運搬員も小峠に到着し休憩。

 しかし、汗で濡れた下着が肌に張り付き急速に体温を奪って行った。


 隊が大休止している最中、天候が急変の兆しを見せ始める。

 隊に随行していた軍医の進言で、今後の進退についての協議が将校間で行なわれた。


 報告書によると、『協議では軍医が引き返すべきと提言したが、他の将校は行軍を継続すべきと反対した』、『下士卒も士気が高く、帰営には反対だった』などと記されていたが、これも虚偽の報告である。

 この時誰もが、特に下士卒は帰営したいと思っていた筈だ。

 まともに食事すら出来なかったのだから当然である。


 そう、下士卒の意見を纏めたとうそぶき、虚偽の報告をした者が居るのだ。


 隊は午後一時頃に小峠を出発。

 協議で行軍の継続を決定したものの、とうとう吹雪ふぶき始めた。

 その吹雪は強烈で、燐寸マッチを擦ってみても全く火が付かない程であったと云う。


 隊は大峠おおとうげを通過。

 午後四時半頃には、本隊が馬立場うまたてばに到着。

 本隊は田代新湯方面に斥候せっこうを差し向けるが、斥候隊も進路を見付けられず帰隊した。


 その後、大幅に遅れて運搬隊が合流。

 馬立場から鳴沢なるさわへと向かう途中、隊は橇による運搬を断念。

 以後は行李こうりでの運搬に切り替えた。


 報告書では、『道に迷った時に退却の道標みちしるべとする為、橇を捨てる事が計画に折り込み済みだった』とあるが、積雪の中で橇を動かすのが困難だと判明した時点で橇を捨てるべきであるし、そもそも橇での運搬を計画した時点で無謀である。





 一九〇二年一月二三日 第一露営地ろえいち





 本隊は二度目の斥候を出すが状況変わらず。

 既に日没を迎えていた為、隊は平沢ひらさわの森を露営地として決定した。

 午後九時には運搬隊も到着し、露営の準備が始まる。


 報告書によれば、『幅二メートル、長さ五メートル、深さ二・五メートルの雪壕せつごうを掘った』とあった。

 雪壕と宣ってはいるが、只の穴である。


 頭上を覆う天幕テントも無くさらし。

 わらなども無かった為、保温性にも乏しかった筈である。

 然も、『かなり窮屈で座る事すら出来なかった』と報告書にあった。


 又、雪壕を掘る為の円匙えんぴを一〇本しか携行しておらず、隊の規模に比べ余りにも少ない。

 隊はこの雪壕掘りに約一時間を費やした。


 [註*円匙えんぴ=シャベル。

 本来の読み方は円匙えんしだが、旧日本軍や自衛隊では円匙えんぴと呼称している]


 食事の用意も始まったが、『一丈(約三メートル)掘っても地面に到達しなかった』とあり、この時点での積雪の深さは四メートル以上と推察される。


 各小隊は炊飯用の炭を受領し火をおこした。

 ここぞとばかりに皆が餅を焼こうと試みたものの、火の点いた炭火は雪の中に沈んで行く。

 隊員達の絶望は想像だに出来ない。


 報告書によると、『寒気ははなはだしく、兵士に足踏みと軍歌を唄わせて凍傷を防いだ』とある。

 これは事実だが、一日中雪の中を進み山登り迄させられた隊員達の疲労は相当なものだったろう。


 加えて、各人は靴下か足袋に直接雪沓を履いている。

 雪沓を長時間履いていると、藁の間に入った雪が解けて靴下や足袋が濡れ、そのうち底が凍ってしまうのだ。


 そのような状況下で、隊員達は眠れぬ夜を過ごす破目になる――。





 一九〇二年一月二四日 第一露営地





 午前一時。

 睡眠も取れず未だ足踏みさせられていた隊員達の許に、餅と米飯一杯分が支給された。

 餅は石のように硬く米飯は生米同然で、殆どの者が食べられなかった。


 炊飯釜で温めた酒も支給されたが、酒は何故か異臭を帯びており、酒好きの隊員ですらも飲めなかったと云われる。

 後に露営地で残骸を回収した所、酒に混入されていたのは糞尿である事が判明した。


 午前一時半。

 山口 少佐がようやく帰営を命じる。

 準備の後、午前二時半頃に隊は露営地を出発。


 隊は馬立場を目指して出発した筈が、午前三時半頃に鳴沢付近で峡谷に迷い込んだ。

 沢への道を下った所、駒込川こまごめがわの本流に出てしまう。


 目的地の田代新湯は駒込川の上流に在るので、そのまま上流に向かいさえすれば到着できたのだ。

 しかし誰も田代新湯の場所を知らなかったので、隊は反対の下流方向へと進路を取ってしまう。


 本格的な遭難の開始だった。


 報告書では、『この日の天候、風速二九メートル毎秒前後。気温摂氏零下二〇度から二五度以下。積雪は渓谷けいこくの深い場所で六メートルから九メートル』とされている。


 このような苛酷な環境の中、遂に凍傷や凍死者が出始めた。

 大半の隊員が低体温症になっていたにも拘らず、行軍は止まらない――。





 一九〇二年一月二四日から二五日 第二露営地





 将校のひとりが凍死し、隊は鳴沢西南の窪地くぼちに露営する事となった。

 風雪をさえぎる物など何も無く、吹き曝しの露天である。


 残りの食糧は、ほしい、餅の残り、缶詰だったが、当然それらは凍結しており、又もや兵達は殆ど食べられなかった。


[註*ほしい=ほしいい、とも。

 蒸して乾燥させた保存用の米飯。

 湯や水で戻して食べる旅の携行食]


 この日の行軍は十四時間半にも及んだ。

 進行できた距離は、前の露営地より直線距離にしてたったの約七〇〇メートル。

 そしてこの第二露営地で多くの隊員が昏睡状態となり、凍死した。


 明けて午前三時頃、隊は馬立場を目指し出発。

 方位磁石は既に凍結していた。

 隊は不完全な地図と勘に頼っての行軍だった為、再度道を見失ってしまう。


 ここで、絶望の淵に落ち掛けていた隊員達に容赦なく止どめが刺された。


 とある将校が叫ぶ。


「もう駄目だっ!

 天は我らの死を欲している!

 みんな露営地に戻り枕を並べて死のう!」


 将校の一言で、隊は壊れた。


 叫び乍ら川へ飛び込む者。

 樹木に向かって銃剣で斬り付ける者。

 突然服を脱ぎ始める者など、発狂者が続出。


 凍傷で手がかず軍袴ぐんこボタンを外せぬまま放尿してしまい、そこからの凍結が原因で凍死する者なども続出した。


[註*軍袴ぐんこ=軍服のズボン]


 その後、将校達が協議の末に隊を任意解散したと新聞は報じたが、生存者達は否定している。


 ここから先はもう、語るに忍びない惨劇だった。

 二百十名中、生還したのは僅か十八名。

 そのうちの七名が救出後に間もなく死亡。

 よって、最終的な生還者は十一名。


 又、生還者の大半も凍傷により手足を切断している。

 五体満足だったのは僅か三名。


 その内のひとりは当時珍しかった護謨ゴム靴を履いており、その御蔭で凍傷を防げたのではないか、と云われた。

 五体満足だった三名のうち二名も、後の日露戦争で重傷を負い死去。


 そして一九一九年現在、五体満足で生き残っている者は……


 井高上 大吾、ただひとりである――。





 同県平内町で教員をしていた男性の日記に、村の祭りで村民が唄っていた唄の歌詞が記してあった。

 以下がその歌詞である。



 ――雪の穴ぐらえいさっさ、


 ――異国のお城にゃほど遠い。


 ――円舞曲ワルツなんかは場違いで、


 ――のどから出るのは戦唄いくさうた


 ――踊ってくれろと若殿わかとのが、


 ――伸ばす手のさき新貞羅シンデレラ


 ――硝子ガラスの靴の新貞羅シンデレラ


 ――いえいえ御嬢おじょうじゃござんせん。


 ――しがない哀れな兵隊さん。


 ――氷のくつの兵隊さん。


 ――誘った若殿何者ぞ。


 ――でっかいだけのでくの坊?


 ――馬鹿なだけのあんぽんたん?


 ――いえいえ偉い山の神。


 ――とっても怖い風の神。


 ――夜を徹して足踏みすれば、


 ――それだけ黄泉路よみじに近付ける。


 ――みなで一緒に飯炊めしたきすれば、


 ――黄泉竈食ひよもつへぐいもなんのその。


 ――踊り狂ってえたなら、


 ――枕を並べて眠りゃんせ。


 ――雪のしとねで眠りゃんせ。


 ――それをていた山の神、


 ――風を起こして大笑い。


 ――御霊みたまろうて大わらい。


 ――――。





 一九〇六年七月、最も多くの死者を出した鳴沢の第二露営地付近に、雪中行軍遭難記念碑像が建立こんりゅうされた。

 この像は、第二次世界大戦時の金属供出の際にも破壊をまぬがれ、今も其処そこに在る――。





 白い地獄、八甲川山 その二 了

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