第44話
それから更に半年の間が過ぎていたが、島にいる間、特別なことは何もしていない。
特別なことも起こらない、ゆっくりとした日々を送っていた。
以前の忙しさからは想像ができないほど、一緒にいられる日々。
朝起きた時も、夜眠る時も。
ずっと一緒にいられる、奇跡のような日々だ。
まるで幼き頃の夏休みのように、遊んでばかりいる。
大人になって、あの頃のように無邪気に遊べる日々を送れるなんて思いもしなかった。
天気の良い昼間にマンスリーマンションの屋上で、咲は一人で絵を描いていた。
「こうかな…?」
沙仁が定食屋に働きに出ている間は、通販で取り寄せた画材で絵を描いているのだ。
離島なため送料は掛かるが、こればかりは仕方ない。
シンプルなスウェットに、地味なジーンズ。
油絵が付いても良い服というよりは、半年も毎日一緒にいるとオシャレも手を抜いてしまう。
以前は高級ブランドばかり着ていた沙仁。
咲だって、彼女と会う時は可愛い服でいたいとおしゃれをしていた。
いまは、二人とも似たようなカジュアルなファストファッションを着込んでいる。
ただお互いが側にいるのなら、服なんてどうだって良かった。
おしゃれよりも、彼女の隣にいられるなら何だっていいのだ。
絵を部屋に運び込んでから、散歩がてらに歩いていれば、背後から声を掛けられる。
ここで咲のことを愛おしそうに呼ぶ人なんて、一人しかいない。
振り返れば、案の定そこには沙仁の姿があった。
「おつかれさま。お皿割らなかった?」
「割ってないし」
からかえば、拗ねたように唇を尖らせている。
季節はまた移ろいを見せて、すっかりと冬の寒さを迎えていた。
冷え込む中で、2人でくだらない話をしながら歩いていく。
「そういえば、咲、胸大きくならなかったんだね」
「豆乳飲むの辞めたからかも。沙仁のせいで、リンゴジュースばっかり飲んでたから」
「育乳ブラはもうしないの?」
もう5年近く前だと言うのに、よく覚えているものだ。
記憶力の良さを恨めしく思いながら、少しだけ意地悪な言葉を口にする。
「胸が小さい女の子は嫌い?そういえば、昔私の体には欲情しないって言ってたもんね」
「あれは、言葉のあやで…」
「ふーん?」
ごめんって、と珍しく焦ったように眉根を寄せている。
必死に機嫌を取ろうとしているのか、沙仁は咄嗟に近くにあったポスターを指さしていた。
「明日、これいかない?」
そう言って指さしたのは、椿祭りの告知ポスターだった。
「お祭りって言っても、会場は島内全部なんだって」
島の名物である椿を見て回るイベントらしく、これを目当てに島の外から観光客がやってくるほどらしい。
大好きな女の子からデートに誘われて、断るはずがないだろう。
頷けば、ホッとしたように沙仁が笑みを浮かべる。
その顔が見られるならと、並大抵のことは許してしまうのだ。
喫茶店でお昼ご飯を食べてから、二人はバスを使って大島公園へとやって来ていた。
昨日行くことが決まってから、すぐにスケジュールを組んだのだ。
島内全てを1日で周る必要もないため、今日は有名スポットを幾つか周る予定だ。
穴場の名所は、二人で散歩をしているうちに見つければいい。
時間も沢山あるのだから、何も焦る必要なんてないのだ。
園内は真っ赤な椿が咲き誇り、本当に綺麗で、思わず二人とも瞳を奪われてしまう。
喋ることも忘れて見入っていれば、背後からヒソヒソと話す声が聞こえてくる。
「ねえ、あれって…」
「だよね?やっぱりモデルの……」
沙仁の耳にも入っていたらしく、二人とも無言で歩くスピードを早めた。
「気づかれたかな…?」
「まあ女で180センチ近い人中々いないからね。ただでさえ目立つし」
「やっぱり観光名所はやめたほうが良かったかな?」
自分で言っておいて、少し寂しさを覚えてしまう。
スタイルも、顔立ちも。
一般人とはかけ離れすぎて、普通の日常に彼女がいると、どこか浮世離れしてしまう。
沙仁の意思を関係なしに、視線を集めて注目されてしまうのだ。
「まあ、いいじゃん。けど、もうちょっと時期が遅かったからオオシマザクラも一緒に見れたのにね」
季節はすっかり寒くなり、マフラーを巻いていないと過ごせないのだ。
今が見頃とはいえ、あともう少し待てば桜も咲いて鑑賞もしやすくなるだろう。
空いていた手を、ギュっと握られる。
先ほどの女性客の存在を思い出しながら、声のボリュームを落とした。
「…見られてるかもよ?」
「見せつけてやろう」
いたずらっ子のような沙仁の姿に、釣られて笑ってしまう。
堂々としていていいのだと、背中を押されような気分だった。
それから色々と名所を見て回っていれば、あっという間に時間は経過してしまう。
生活しているマンスリーマンションまで、街頭の明かりを頼りに歩いていた。
さざ波の音が近くに聞こえて、ふいに顔をあげれば、すぐ側に浜辺があることに気づいた。
海に囲まれていると言うのに、彼女と一緒に浜辺まで来たのは初めてかもしれない。
「ちょっと見る?」
「……うん」
もう時間は遅いため、あたりは暗い。
真っ暗な海に星と月が反射して、それが酷く綺麗だった。
波打つ音に耳を澄ませながら、砂浜の上に座り込む。
他に誰もいないせいで、この世界で二人きりのような錯覚を起こしてしまいそうだ。
「もう、半年以上経つかな…ここに来て」
「うん…人生で、こんなに休んだの初めてかも」
ジッと、耳を傾ける。
真っ直ぐに海を見据えながら、沙仁の言葉を聞き入っていた。
「今までね、一回も修学旅行に行ったことがないの」
「え…」
「文化祭も、学芸会も。全部出たことない。ずっと仕事で忙しかったし、目立つから出ないでって言われたこともあった……。夏休みとか冬休みもあってないようなものだった」
芸能人として、仕事で忙しいのはもちろん。
参加してしまえば騒ぎになってしまうと判断されて、出させてもらえなかった可能性もある。
この子は本当に、沢山のものを犠牲にしてここまで生きて来たのだ。
「どうして、伊豆大島に来たかったの?」
ずっと気になっていたことだ。
モデルとして海外を沢山回った彼女が、どうして東京の離島に行きたいと願ったのか。
沙仁は躊躇うこともなく、あっさりとその理由を教えてくれた。
「私ね、母子家庭なの。シングルマザーで、キッズモデルしてたのも、お母さんの承認欲求満たすためみたいな感じで」
言葉を返す代わりに、そっと、沙仁の手を握る。
初めて聞く過去は、決して明るいものではなかった。
「けど子育ても飽きたのか、おばあちゃんの家に引き取られてさ。おばあちゃんは本当に優しくて大好きだったんだけど…」
「そうなんだ…」
「歳も歳だから遠出とか出来なかったんだよね。だから、小学6年生の時…仕事がない夏休みに、沖縄の代わりに伊豆大島に旅行に行く予定だった。けど、途中で仕事が入って直前で行けなくてさ」
あの日と一緒だ。
高校一年生のあの日も、仕事でこの子の願いは叶わなかった。
「んで…中学2年生の時におばあちゃんも亡くなったの。それからはマネージャーがお母さん代わりみたいな感じで色々面倒見てくれてた」
全寮制の高校に入ったのも、親族がいなかったからなのかもしれない。
都内のアクセスがいい場所に、他にも芸能科の高校は存在するのだ。
「その人が大好きなんだ」
「うん、歳もちょうど母親くらいで…けどね、パリで起こった事故で死んじゃったの」
言いながら、沙仁は自身の義足を撫でていた。
「左側に座ってて…もし、私がそっちに座ってたらたぶん私が死んでた。目覚めたらさ、左足無いし…マネージャーもいないし。どうして私ばっかりって、生きるのが苦しくなった」
「……うん」
「モデルじゃないのに、生きてて良いのかなって思うくらい…私はモデルとして有名になるためだけに生きてきたから」
それは、側にいた咲がよく知っている。
学校も、遊びも。
大切な人との約束も、全て投げ打ってモデルとして生きてきたのだ。
「本当はね、もういいかなって思ったの」
「え…」
「モデルやれないなら、何のために生きてるのかなって……でも、咲がいるから」
先ほどとは打って変わって、彼女の声色に明るさが戻り始める。
無理をしているわけではない。本当に心から想うからこそ、自然と笑みを浮かべているのだ。
「咲がいるなら、生きるのも悪くないって思うよ」
体を引き寄せて、ギュッと抱きしめる。
様々な感情が込み上げてきて、愛おしくて堪らない。
格好を付けずに、咲は思ったままに言葉をぶつけていた。
「私は、沙仁がいないと描けないの」
「うん……」
「生きる理由が欲しいなら、私のために生きて」
「しょうがないなあ」
そう言った彼女の声は、僅かに震えていた。
トントンと、優しく背中を叩く。
今まで沢山のものを我慢させられて、それでも頑張ってきたこの子に、どれだけ寄り添えるのかは分からない。
沙仁の心に出来た傷を、完全に癒すことだってできないかもしれない。
だからこそ、すぐ側にいてやりたいのだ。
本当は誰よりも努力家で、ひたむきな沙仁の側で、支えてやりたい。
この子の、心の拠り所でありたかった。
「お願いがあるの」
「なに?」
「ずっと、高校生の頃から言いたかったんだけど…」
絵のモデルをして欲しい、と続ければ、沙仁は少しだけ驚いたような顔をしていた。
だけど、すぐに満面の笑みを向けて、大きく頷いてくれる。
あの日言えなかった言葉を、5年越しにようやく言えた。
少しずつ、何かが動き始めたのを、咲は確かに感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます