第42話


 クイーンサイズのベッドは広いというのに、咲は愛おしい彼女の温もりを感じながら目を覚ましていた。


 沙仁が契約しているマンスリーマンションのベッドは中々寝心地が良く、深い眠りについてしまっていたのだ。


 「……寝てる」


 いまだにぐっすりと眠っている沙仁が可愛くて、つい笑みを浮かべてしまう。


 起こさないようにベッドから降りてベランダに出た咲は、たっぷりと朝日を浴びていた。


 「良いところだな…」


 周囲が海に囲まれているせいか、本島よりも日差しが強い。

 日焼け止めを厳重に塗らなければ、すぐ日焼けしてしまうだろう。


 ベッドの方から眠たげな声が聞こえて、振り返る。


 「おはよ…」

 「おはよう、寝癖ついてるよ」


 ここと指を指せば、沙仁は寝ぼけながら反対側を手で押さえている。


 一瞬見えた彼女の左足は、義足が付いていなかった。

 恐らく、暗闇で寝るときに外したのだろう。


 昨夜、彼女は頑なに咲の前で義足を取ろうとしなかった。


 複雑な心境があるのだろうと、あえて触れずに景色を見ていれば、暫くしてすぐ側に沙仁がやってくる。


 一階のここからは、海がよく見えて酷く綺麗だ。


 「良いところだね」

 「でしょ?」

 「来たくなる気持ち、分かるよ」


 一つ、大きく伸びをする。

 ふと視線を落とせば、既に彼女の左足には義足が取り付けられていた。


 付いていない姿を、この子はもしかしたら見られたくないのかもしれない。

 昨日も長いジーンズを身につけていたし、人前では義足すら隠そうとしている可能性もある。


 「咲、大学は?」

 「休学中だよ」

 「私のせいだよね…?」

 「沙仁のためだよ。私の夢は、好きな人がそばにいないと完成しないの」


 申し訳なさそうな顔をする、沙仁の肩を軽く小突く。

 やはり、以前に比べたらどこか元気がない。


 明るい性格は相変わらずだが、ふとしたときにとても寂しそうな顔をするのだ。




 朝ごはんを食べ終わってから、二人でソファに座りながらコーヒーを飲む。

 テレビもつけない、静かな室内。


 ただまったりと、一緒にいられるだけで十分だった。


 「美味しい」

 「本当?前喫茶店でアルバイトしてたんだ」


 子供舌は相変わらずらしく、沙仁が飲む珈琲は砂糖とミルクが沢山入っている。


 のんびりと珈琲を飲み終わった頃には、時刻は既に10時を迎えてしまっていた。



 以前だったら咲は学校へ、沙仁は仕事へ行っていた。


 こんな風に何もせずにゆっくりとした時間を過ごすのは初めてだろう。


 「今暇なの?」

 「そうなの。いつも何しよっかなって考えてる」

 「じゃあ、家事覚える暇もある?」


 みるみるうちに、沙仁が嬉しそうに顔を綻ばせていく。

 家事の練習で、ここまで喜ぶのは彼女くらいだろう。


 当たり前のことを当たり前に出来ないくらい、彼女は常に忙しさに追われていたのだ。


 クローゼットに仕舞い込まれていた掃除機を使って、床のゴミを吸い込んでいく。


 我が子の成長を見守る気持ちで沙仁にそれを託した後、咲は戸棚の汚れを拭いていた。

 

 「沙仁、掃除サボってたでしょ?」

 「バレた?」

 「ここ、埃みまれ」


 白かった雑巾はすっかり黒く汚れが付いており、それを見た沙仁は驚いたように口元を歪めていた。


 「きったな!ゴミ屋敷じゃん」


 そうは言うものの、彼女はどこか楽しげで、咲も釣られて笑ってしまう。

 

 ただ掃除をしているだけだというのに、好きな人のそばにいられるだけでこんなにも楽しくて仕方ないのだ。

  

 掃除を終えてからは、二人で近くのスーパーまでやって来ていた。


 マンスリーマンションに備え付けられた冷蔵庫は空っぽで、色々と食料を買い込むつもりだった。


 梅雨は過ぎ去ったのか、蒸し暑さが二人を襲う。

 沙仁と、初めて一緒に過ごす夏だ。


 「何作る?」

 「カップケーキにしよ。ホットケーキの元使って作るやつ」

 「チョコ入れても良い?」


 もちろん、と返事をする。

 スーパーに到着すれば、沙仁は宣言通りチョコレートをカゴに放り込んでいた。

 

 どさくさに紛れてスナック菓子も入れている。

 本人は上手くいったつもりだろうが、あまりにもバレバレだ。


 カートを押しながら色々と食材を眺めていれば、一人のお婆さんに声をかけられる。


 「あら、沙仁ちゃんいらっしゃい」


 どうやらここの店主らしく、優しい雰囲気でニコニコと笑みを浮かべている。


 親しげに世間話をしてから、「ゆっくりしていってね」と言葉を残して、お婆さんは他のお客さんに同じように声を掛け始めた。


 「よく来るの?」

 「お菓子買いに来てる。結構島の人とは仲良いかも。観光客っぽい人からはジロジロ見られるけど」


 スタイルが良すぎるのだから当然だろう。


 離れていた間、この子はひとりぼっちではなかった。

 親しげに輪に入って、沙仁として馴染めていたことに、思わずホッとしてしまっていた。

 


 


 当然沙仁がエプロンを持っているはずなく、2人ともエプロンはせずにカップケーキ作りに励んでいた。


 調味料を一から買い込んでしまったために、購入品の入ったエコバッグはパンパンに膨らんでしまっている。


 とりあえずカップケーキに必要な材料だけを取り出して、調べたレシピを参考にしながら作り始めた。


 「はちみつかけたら美味しそう」

 「マーガリンもういれていい?」

 「うん…あれ?」


 よくよくレシピをみれば、必要な材料はマーガリンではなくてバターだ。


 「間違って買っちゃった」

 「まあ、いいじゃん」


 こうしていると、高校生の頃を思い出す。


 2人でパスタを作った思い出。

 成功したこともあれば、失敗したこともあった。


 懐かしくて、愛おしい思い出。


 沙仁のお陰で、咲は肩の力を抜く大切さを知ったのだ。






 カップケーキはふんわりと焼き上がり、アクシデントがあった割には成功している。

 出来立てのものを二人で味見すれば、かなり美味しくて、自然と口角が上がってしまう。


 「美味しいね」

 「今度はベリーいれたいなあ」


 窓からはカラッとした空気が流れ込んできて、サラサラと肌に触れる風が心地良い。


 好きな人と一緒に掃除をして、買い物へ行って、料理をする。

 当たり前のようなことが、かつては簡単に出来ない状況だった。


 チョコを口元に付けて、おいしいと喜んでいるこの子が、可愛くて堪らない。


 恋人として、彼女の側にいられること。


 その貴重さを知っているからこそ、咲は今のこの時間が幸せで堪らないのだ。

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