第37話
一昨日の電話から、咲はどこかそわそわと落ち着かない日々を送っていた。
3年近く会えていない恋人と、もうすぐ再会できるかもしれないのだ。平常心でいられる方がおかしいだろう。
会う前には、美容室に行って髪を整えよう。
油絵制作の際に汚れても良い服ばかり着ていたせいで、最近は服にも無頓着だった。
もう大学生なのだから、好きな人と会うための服は自分で選びたい。
自分で選んだ服で、とびきりに可愛いと思われたいのだ。
珈琲を煎る香りに、スンと嗅覚を刺激される。
喫茶店でアルバイトを始めて半年近く経つが、この香りを嗅ぐたびにどこか癒されてしまうのだ。
優しい老夫婦が経営している珈琲が美味しいと評判のお店で、アルバイトが初めての咲でも何とか仕事をこなす事ができていた。
働いているスタッフは勿論、お客様も皆優しいからこそ、失敗をして落ち込む事があっても続けられているのだ。
最近ではすっかり仕事も上達し始めて、咲もマスターからコーヒーの淹れ方を教えてもらえるようになっていた。
再び再開したとき、珈琲を淹れてあげたら喜ぶだろうか。
だけど、子供舌の彼女のことだから沢山お砂糖とミルクを入れる姿が想像できる。
今も、リンゴジュースを好んで飲んでいるのだろうか。
そんなことを考えながら注文された珈琲を常連客のお婆さんに提供すれば、声を掛けられる。
丁度咲くらいの孫がいるらしく、可愛がって貰っているのだ。
「お嬢ちゃん見た?怖いねえ」
そう言いながら指さしたのは、備え付けられたテレビの画面。
咲も釣られて顔をあげれば、丁度夕方の報道番組が映し出されていた。
「フランスで玉突き事故だって。沢山の怪我人が出たみたいだよ」
現地から放送されている映像は、幾つもの車が大破して、見るに耐えないものだった。
救急車やパトカーが幾つも集まっており、大きな事故であったのが一眼でわかる。
「なんか、日本人の怪我人もいるらしいよ」
だからリアルタイムで放送されているのかと納得がいく。
遠い国で起こった事故なのに、どうして日本でリアルタイムで放送されているのか、少し不思議だったのだ。
被害は大きく、まだ怪我人や死者の把握にも至っていないとキャスターが言葉を続ける。
そのニュースを、咲はどこか他人事のように眺めていた。
バイトが終わったその足で、咲は行きつけの画材店へとやって来ていた。
噂通り、美大というのはお金が掛かる。
アルバイトで賄っている分もあるが、やはり両親に甘えてしまっている状態が申し訳ない。
「咲がやりたいことなんでしょう?」と二人とも応援してくれているが、それに胡座をかくつもりはさらさらないのだ。
いつか恩返しをしたいと考えながら駅までの道を歩いていれば、街灯モニターから聞こえる声に思わず足を止めた。
『臨時ニュースです』
一際大きなビルの壁に取り付けられたモニター。大画面には、ニュースキャスターが映し出されていた。
先ほどまで音楽の週間ランキングが放送されていたというのに、最中に割り込んで入ってきたのだ。
多くの人が足を止めて、画面を見やっている。
『大人気モデルのルナさんが、先日起こったフランスの玉突き事故に巻き込まれていたことが判明しました』
ざわざわと辺りが騒めく中、咲は言葉を失っていた。
他人事のように眺めていた、遠い国の交通事故。
まさか自分の恋人が巻き込まれていたなんて、思いもしなかったのだ。
『意識不明の重体らしく、いまだ意識は目覚めていないとのことです』
持っていた画材の入った袋を、その場に落としてしまう。
ただひたすらに、じっと画面のモニターを見入っていた。
「嘘……」
あまりにも信じられずに、否定するような言葉を吐いてしまう。
だけど、それはまごうことなき事実で、確かに現実なのだ。
国内を代表する人気モデルの、突然の事故。
当然あたりは大きくざわつき出して、悲しみに暮れている。
たった数日前、電話をした時は元気だったというのに。
わずかな間で、彼女は生死を彷徨うことになったのだ。
涙が溢れ出て、咄嗟に口元を押さえながらその場にしゃがみ込む。
どうすることもできない状態に、目にしたこともない神様頼みをしてしまう。
大切なあの子の命を助けてと、祈ることしか出来ないのだ。
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