第36話
楽しい時間というのはあっという間に過ぎ去るもので、咲は一人で暮らしているマンションまでの道のりを歩いていた。
両親は相変わらず海外赴任中なために、高校を卒業と同時に一人暮らしを始めたのだ。
といっても、高校の頃も沙仁が去って以来一人暮らしの状態だったため、生活自体はそこまで変わらない。
2DKのマンションは一室をアトリエとして使っており、家でも絵を描く毎日だ。
描かなければ落ち着かない。
色々なアイデアが溢れ出て、描きたいものが沢山あるのだ。
「ただいま、ハムスケ」
ジャンガリアンハムスターのハムスケは、今年の春に命を引き取った。
ゆっくりと眠るように、寿命によって天命を全うしたのだ。
今は写真を飾って、毎晩手を合わせるようにしている。
沙仁と離れて、3年の月日が経過して。
出会いと別れを繰り返して、色々な心境の変化があったけれど、あの子を忘れた日は1日だってない。
「会いたいなあ…」
ポツリと本音が溢れる。
大好きなあの子に、早く会いたくて堪らない。
度々紙面で彼女の活躍を知るたびに、より一層その想いを強くさせてしまうのだ。
通っている大学の学食は、良くも悪くも普通だった。
目を見張るほど美味しいわけではないし、かといって食べれないほど不味いわけでもない。
恐らく冷凍食品を駆使しているだろう食堂は、値段の安さから多くの生徒で賑わっているのだ。
注文した肉そばを食べながら、スマートフォンを弄る。
行儀が良くないことは分かっていたが、つい気になって彼女の活躍を調べてしまうのだ。
「え……」
新着の芸能ニュース記事。
そこには、モデルのルナがパリコレに出るかもしれないという、リーク情報が掲載されていた。
いまだ、ルナはパリコレに出場していないのだ。
海外で活躍していると言っても、出演できるのは並大抵のことではない。
本当に選ばれた人間だけが立てるステージ。
「もし、出場したら……」
自然と、心は震えていた。
有名なスーパーモデルになって迎えに来ると約束して3年、一度も沙仁とは会っていない。
もし、それが実現すれば。
ようやく、あの子ともう一度会えるかもしれないのだ。
一体、どんな風に成長しているのだろう。
紙面ではなく直接会う彼女を想像して、ワクワクと胸が躍ってしまう。
ずっと我慢しているけれど、本当は愛おしいあの子に会いたくて堪らないのだ。
日本とフランスの時差は7時間で、沙仁は仕事が、咲は大学の課題制作と何かと忙しい。
それでもお互いなんとか時間を合わせて、月に一度は電話をするのが暗黙の了解になっていた。
アトリエ代わりに使っている自室で絵を描いていれば、スマートフォンが振動し始める。
約束通りの時間に、咲は胸を弾ませながら電話に出た。
『もしもし、咲?』
「うん。元気してた?」
『もちろん。咲も元気そうだね』
当たり障りのない会話から始まり、お互いの最近起こった出来事を語り合う。
離れている分、沙仁から聞かされるフランスでの生活は凄く興味深くて、沙仁も美大で起こった咲の話を楽しそうに聞いてくれていた。
そして、ずっと気になっていた、今昼見かけたあの記事について触れる。
「あのさ、パリコレに出られるかもってネット記事出てたけど本当?」
『まだ確実じゃないよ。明後日ブランドモデルの最終オーディションなんだ…もし合格したら、起用される可能性があるってだけだけど……結果出たら報告する』
以前まで結んでいたフランス発祥ブランドとの契約期間は、確か数ヶ月前に終了したと聞かされていた。
新たなステージへ、彼女はまた一歩登ろうとしているのだ。
『もうすぐ、咲のこと迎えにいけるかも』
胸の奥底から、ぶわりと幸せな感情が込み上げてくる。
長年の我慢が、ようやく終えられる日が来るかもしれないのだ。
「会ったら、なにしよっか」
『ちゅーしようかな』
離れていても、沙仁はあの頃のまま。
奔放で、自由人な性格は何も変わっていないのだ。
高校を卒業して、色々と成長したつもりでいたけれど、変わらずにいる沙仁の存在に、どこか癒されている自分がいた。
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