第34話
ガチャリという扉の閉まる音に目を覚ませば、爽やかな朝日が部屋中を照らしていた。
あのまま眠ってしまったようで、フカフカと柔らかい掛け布団が掛けられている。
好きで堪らないあの子と、抱きしめ合って眠りに付いたのだ。幸せで、心は十分満たされていた。
「……沙仁」
時計は7時を過ぎていて、先程の扉が閉まる音はあの子がここを出ていった証だろう。
咲を起こさないように、こっそりと旅立ってしまったのだ。
沙仁が眠っていたスペースは、とうに彼女の温もりを無くして冷え切ってしまっていた。
ソファから降りて机の上を見れば、Tシャツが一枚畳まれた状態で置かれている。
「相変わらず、下手だなあ」
本人は真剣なのだろうけれど、折り目も適当で決して上手ではない。
結局、あの子の家事力はちっとも成長していないままだ。
「手紙……?」
手紙と呼ぶには、短すぎるだろうか。
可愛らしい便箋には、彼女らしい豪快な字で『いってきます!それを私だと思ってね。あ、代わりに咲のパンツも一枚もらったよ♡』と書かれていた。
本当に、最後まで奔放な人だ。
思わずくすりと笑ってしまう。
沙仁が使っていた部屋の扉を開けば、当然そこはすでに抜けの殻だ。
「……行っちゃったんだ」
結局、お見送りの言葉は言えないまま離れ離れになってしまった。
平日だから、咲はこれから学校へ行かなきゃいけないのだ。
準備をしなければと、制服に着替えてから身なりを整える。
ハムスケのご飯をあげた後。一人でトーストを齧りながら、思い浮かべるのは沙仁のことだった。
「……ッ」
いいのだろうか。
大好きなあの子の門出を、見送らなくて。
たかが、授業のために。
「たかが、か……」
あの子と出会う前の咲が聞いたら、きっと酷く驚いただろう。
真面目で、不器用だったあの頃の咲は、授業をサボるだなんて、絶対に許されないことだと思っていた。
「……いっか」
学校のカバンを引っ掴んで、そのまま部屋を飛び出す。
堅苦しい理屈ではなくて、自分がどうしたいのか。
咲の気持ちを最優先するのであれば、どうするかなんて決まっているのだ。
一生懸命に足を動かして、歩いている部活生と思わしき生徒たちを追い抜いてしまう。
途中でローファーが脱げそうになっても、必死に踏ん張って、何とかバス停まで到着していた。
丁度よくやってきたバスに乗り込めば、朝早いせいか人はあまり乗っていない。
心臓が、バクバクとうるさいくらい早く鳴っていた。
真面目で、頭でっかちな咲が、自ら学校をサボったのだ。
戻って来れば、絶対に怒られる。
先程すれ違った生徒の中には同じクラスの人もいた。
目撃情報もすぐに上がってしまうだろうから、言い訳だって出来ないだろう。
「……どうでもいっか」
大切な人の門出と、普段の授業。
どちらを選ぶかなんて、そんなの咲の自由だ。
そう思えるのも全て沙仁のおかげろう。
彼女のおかげで、肩の力を抜く大切さを知ったのだ。
ここから向かえば、きっとギリギリ間に合うはず。
お願いだから間に合って…!と、咲は心を焦らせながら、ひたすらに願っていた。
平日だというのに、空港内はそこそこ人で賑わっていた。
スーツを着たサラリーマンや、母親ほどの年代の叔母様たち。
年はバラバラで、皆ここからどこかへ羽ばたいていくのだ。
必死に沙仁の姿を探しても、広い空港内では目視できるはずもない。
来る途中に何度か送信したメッセージは、見ていないのか未だ既読は付かないままだった。
もしかしたら、もう機内に乗り込んでしまったのだろうか。
時刻は8時40分。
出発は20分後なはずだから、既に待機していたとしても何もおかしくない。
このまま、会えないのだろうか。
起きるのが遅かった自分を恨んでいれば、スマートフォンから着信音が鳴り響く。
「沙仁……っ」
すぐに通話ボタンを押せば、いつも通り明るい彼女の声が通話口から聞こえた。
「もしもし、沙仁?いまどこに…」
『左向いて』
「え……」
マスクを付けて、帽子を被っていても。
スタイルが良すぎるせいで、すぐに誰かわかってしまう。
保安検査場を抜けた先の、搭乗口へ向かうための通路。
ガラスで遮られた先に、手を振っている沙仁の姿があった。
もう検査場は抜けてしまっているため、直接話すことはできないだろう。
ロープが張られているギリギリまで、近づく。
伸ばしても、もちろん二人の手は触れ合わない。
『見送りに来て来れたんだ』
「うん…」
『ありがとね。さすが私の彼女。やることがイケメンだね』
茶化すような言葉に、笑ってしまう。
いつだってこの子は、ふざけた口調で咲を笑顔にさせてくれるのだ。
「また、私のパンツ持っていったでしょ。本当に変態」
『お互い様じゃん』
それに関しては、言い返す言葉がない。
好きな相手の衣類を嗅ぎたくなってしまう気持ちは、咲だって理解できるのだ。
最初はあれだけ軽蔑してしまったというのに、まさか理解できる日が来るなんて思いもしなかった。
離れる前は、どう言葉を掛けるのが正解なのだろう。
さよならや、バイバイが正解だと思っていたけれど。
想いが通じ合っている同士であれば、また別の言葉で見送るべきだと感じた。
「いってらっしゃい」
『……うん!』
ガラス越しに、沙仁がピースサインを向けてくる。
あまりにも高い位置でするものだから、周囲の人は驚いたように沙仁をチラチラと見つめていた。
搭乗を告げるアナウンスが鳴ったことで、そっと通話終了ボタンを押す。
完全に彼女の姿が見えなくなってから、咲は少し強い力で頬を叩いた。
「…よしっ」
あの子が迎えに来てくれた時に、胸を張れるように頑張らなくてはいけない。
沙仁の隣に並んで、恥ずかしくない人間でありたい。
咲の絵を好きだと言ってくれる、あの子のために。
もう一度再会したときに、心から胸を張れる自分でありたいのだ。
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