第33話


 オシャレをするあまり無理をしたいせで、かかとの靴擦れはすっかり酷くなってしまっていた。


 お風呂に入る時ヒリヒリと沁みて、結局絆創膏を貼る羽目になったのだ。


 あの子が帰ってくるのをココアを飲みながら待ち続けても、深夜を過ぎた頃に今日は泊まりになると連絡が来て、結局会えることなく眠りに付いたのだ。


 翌朝起きてもルナの姿はない。


 一人でトーストを頬張りながら、壁掛けのカレンダーにチラリと視線をやった。


 「……もう、明日か」


 明日の日付に、赤ペンで丸が付けられている。

 飛行機に乗って、あの子が旅立つ日。


 とうとうルナと、離れ離れになるのだ。


 最後の日くらい長く一緒にいたかったというのに、ルナがその日帰ってきたのは既に夕飯時を過ぎた頃だった。


 靴を脱いですぐに、ルナが力強く抱きしめてくれる。


 酷く、申し訳なさそうな顔を浮かべていた。

 彼女の温もりを味わえただけで許してしまいたくなるのだから、咲は本当に重症だ。


 「ごめん。本当にごめんね、咲…」

 「しょうがないよ。お仕事頑張ったんでしょ?わかってるから」


 物分かりのいい、フリをしてしまう。

 本当は一緒に島に行きたかったと言ってしまいたかった。

 だけど、困らせるのが目に見えている。


 ルナは何も悪くないのだ。

 プロとして仕事をこなして、寧ろ褒められるべきことをした。


 「お詫びにならないとは思うんだけど…」


 そう言ってルナが取り出したのは、大量のお菓子だった。


 咲が美味しいと言ったものばかりで、仕事で疲れていただろうにわざわざ買ってきてくれたのだ。


 「最後に、お菓子パーティーしない…?」


 最後、という言葉がズシンと胸にのし掛かる。

 分かっていたことなのに、改めて言われるとどうしてこんなに苦しくなるのだろう。


 ルナのために以前購入していたお菓子も取り出して、二人でソファに並んで食べ始める。


 もう夜遅いと言うのに、体重や肌荒れのことなんてお構いなしだ。


 今日くらい、好きにしたかったのかもしれない。


 「明日飛行機何時なの?」

 「早いんだよ。9時くらい……?だから明日も早起きしなきゃいけない。ここ出るのも、7時だっけ…?」


 以前から早起きが苦手だと言っていた彼女にすれば、朝早い旅立ちはかなり億劫なのだろう。


 大好きなお菓子を食べているというのに、顔をしかめてしまっている。


 「…パリに行っても頑張ってね」


 ジッと、彼女の瞳が咲を捉えていた。

 何も言わずに、ただ無言に見つめられている。


 戸惑いながら見つめ返していれば、ルナはそっと言葉をこぼした。


 「……咲は、寂しくない?」

 「え……」

 「私と離れ離れになるの、嫌じゃない?」


 そんなの、答えは一つに決まっている。

 寂しくないわけが、嫌じゃないわけがないだろう。


 だけど、彼女の門出前にそんな我儘を言う度胸もない。

 恋人でもない相手からそんなことを言われても、困らせてしまうだけだ。

 

 彼女の言葉から逃げるように、咲はソファから立ち上がった。


 そして、帰ってきたら渡そうと、ずっと机の上に置いていたそれを彼女に渡す。


 「これ…」

 「ずっと描いてたの」


 美術室に篭って描いていた、ルナの絵。

 木枠から外した布の状態なため、これなら、荷物にならずに持ち運びも出来る。


 絵が描けなかった咲が、再び描けるようになったきっかけの絵だ。


 油絵で仕上げており、明るい色ばかりで色づいている。


 「凄い、キラキラしてる」

 「ルナは、そういうイメージだったから」

 「うん……」

 「雑誌とか、モデルとしてのルナはダークなイメージだけど…私が知ってるルナは、太陽みたいに明るいイメージ…だから、タイトルは決まってないの」

 「タイトル、サニにしよう」


 サニーとは、英語で晴れているなど、太陽のニュアンスを含んだ単語だ。


 咲が抱いたイメージに掛けているのだろうか。


 「ルナと正反対だから、サニーってこと?」

 「サニーじゃなくて沙仁さに。私の名前、沙仁なの」


 初めて知る、ルナの本当の名前。


 海野うみの沙仁さに


 それが、彼女の名前なのだ。


 驚いていれば、再び体を引き寄せられる。

 温もりに包まれながら至近距離で彼女と見つめ合っていた。


 「太陽より、月のイメージだからって……事務所からは芸名にするようにって言われてて。皆んな、それに納得してたの。咲くらいだよ?イメージと違うって言ってくれた人は」


 顎をすくわれて、ゆっくりと彼女の顔が近づいてくる。

 信じられない気持ちで瞳を閉じれば、唇に柔らかい彼女のものが触れた。


 もう、2度と感じられないと思っていたルナの……沙仁の、唇。


 リップ音と共に離れた後、沙仁は見たことがないくらい優しい表情を浮かべていた。


 「……分かったよ。なんで咲にキスして、抱きしめたくなったのか」

 「……沙仁」

 「可愛くて堪らない。…こんなに簡単だったのに、なんで分からなかったんだろう」


 にこりと、咲が大好きな笑顔を見せてくれる。

 愛おしそうに髪の毛を撫でながら、沙仁はハッキリと、その言葉を口にした。


 「好きだよ」


 信じられない気持ちで、瞳の奥底から次々と涙が込み上げてくる。


 堪えることもできずに、ボロボロと大粒の涙を流してしまっていた。


 このまま離れ離れになるかと思っていたのに、最後の最後で想いは通じ合えたのだ。


 幸せな気持ちは確かだというのに、同じくらい切なさも込み上げてきていた。


 「え…咲?なんで…」

 「……いなくなっちゃうから」


 喉がヒリヒリと痛み出す。

 好きだと分かって、自分も同じ気持ちだと言うのに。


 二人が離れ離れなる未来は変わらないのだ。

 好き同士なのに、一緒にいられない。


 今まで仕方ないと我慢していた感情が、とてつもない勢いで溢れ出てくるのだ。


 「好きなのに…一緒にいられない」

 「うん…」

 「何年会えなくなる?お仕事、これからもっと忙しくなって…私は美大の予備校に通い詰めて…」


 それ以上は言わせないように、再び沙仁によって口を塞がれる。


 生暖かい感触で唇をなぞられて、そっと開けば中に彼女の熱い舌がねじ込まれた。


 初めて知る柔らかい感触。

 人の舌がこんなにも柔らかく、生暖かいことを初めて知った。


 「んっ…んぁッ…っ」


 されるがままに、彼女の舌に翻弄される。

 悲しみではなく、生理的な涙が自然と頬を伝った。


 気持ちよさで目をギュッと瞑っていれば、リップ音と共に、ゆっくりと唇が離れていく。

 薄らと頬を淡く色づかせながら、沙仁は真剣な瞳をしていた。


 「……絶対、迎えに来るから」

 「……本当?」

 「大人気なスーパーモデルになって、咲のこと迎えに行く。だから…」


 咲の方からギュッと、強い力で抱きしめる。

 それ以上はもう、聞かなくて良い。


 もう十分、沙仁からの気持ちは伝わっていた。

 抱きしめ合いながら、ソファに横たわる。


 服を着たまま、足を絡ませて。

 服越しに感じる彼女の暖かさを感じながら、咲はそっと目を閉じた。


 このまま、体が一つになってしまえばいいのに。

 そうすればずっと一緒にいられるのに。


 服も脱がず、体も重ねない。

 ただ強く抱きしめ合うだけで、十分だった。


 それだけで、幸せでいっぱいになれるのだ。

 互いの温もりに包まれながら、二人はそっと意識を手放していた。

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